ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙② 新伯爵は前途多難(17)

第四章 バグハート子国(その2)

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 責任の全てをタスカに押しつけて国内を納得させたとしても、対外的にはそんな苦しい言い訳で敗戦をごまかし切れるものではない。ボーンヒルの大敗、そしてそれを一武将の裏切りのせいにして体裁を保とうとするハッシバル家の姿を、天下の諸侯は冷ややかな目で見つめていた。
 せめてもの救いは、今までこうした状況になるたびにティルムレチスを狙って兵を動かしてきたデクター、フォージャー、トッツガーなどの諸国が、今回は互いに牽制し合う形になって軍を動かせなかったことである。しかし一方で、ひとたび落ち目になれば、本来なら目下のはずの国々にさえ侮られ領土を狙われるのがこの時代の常だった。
 ある日、メイルは主立った家臣を集める。末席には諫大夫であるアンティルも加わっていた。
 「最近のハッシバル家の動きをどう思う。」集まった家臣たちを前に、メイルはそう切り出した。
 「どう思うと仰せられましても……。」家臣たちは戸惑った表情を見せる。
 フィドル伯爵の急死、それに続くティルドラスとダンの跡目争い、それが終わったかと思えば今度はサフィアの専権、そしてボーンヒルでの敗戦と、このところのハッシバル家にはろくな事がない。国力は衰え、政治は停滞し、このままでは滅亡も間近いのではないだろうか――。
 「うむ、その通りだ。」メイルは満足げにうなずいた。「今やハッシバル家の命運は尽きようとしている。対して我が国はどうか。国は豊かに兵の意気は上がり、まさに覇業をなす時期に来ている。衰えた国が亡び、新たな国がそれに取って代わるのが乱世の慣(なら)い。今こそ、他国に先を越される前にハッシバル家を討って、我が国がエル=ムルグ山地一帯の覇権を握るべき時だと思うが、どうだ?」
 驚いて顔を見合わせる出席者たち。
 「見よ。ハッシバル家からの国書だ。我が国にトパーナを割譲するとある。伯爵家の公印も押されておるぞ。」メイルは一枚の書状を掲げてみせる。
 それは、先日のハッシバル家の跡目争いの中でダンから届いたものだった。跡目争いも大詰めとなりティルドラス率いる軍勢がネビルクトンに迫る中、追い詰められたダンは、バグハート家にトパーナ、カイガー家にキクラスザールを割譲することと引き替えに、両国にティルドラスたちの背後を襲わせようとした。カイガー家への使者は道筋がティルドラスたちの進路にあたっていたため出発さえできなかったものの、バグハート家への使者は何とかマクドゥマルまでたどり着き、ダンからの書状をメイルのもとにもたらしたのである。もっとも、バグハート家が兵を動かす間もなく跡目争いはティルドラスの勝利によって終結し、この話も立ち消えとなったはずだったのだが……。
 「まずはこの書状の通り我が国にトパーナを割譲するようハッシバル家に申し入れる。おとなしく引き渡せばそれで良し、拒むならば、兵を発して力ずくでトパーナを併せるまでのこと。」さらに、ゆくゆくはトパーナを拠点としてハッシバル領深く侵攻し、ネビルクトンから北はティルムレチスに至るその領土を手に入れ、天下に覇を唱える足がかりとする……。メイルは自分の壮大な夢を語る。
 「子爵の仰せられる通り! この機を逃してはなりませぬ!」彼の言葉が終わるや否や傍らから声を上げたのは、子爵家の令尹(れいいん)で尚書令(しょうしょれい)も兼ねるシェンドリー=アンベンバ。祖父のビスキー、父のシェダルと三代にわたってバグハート家の令尹を務める家柄で、まだ子爵家の世嗣だった頃からのメイルの腹心と言われている。「今こそハッシバル家を討ってその領土を併せ、我が国の武威を天下に示す時でございます!」
 「軍の指揮は私にお任せ下さい。敵は弱兵で知られるハッシバル家、難なく蹴散らしてご覧に入れます。」その隣でうなずくイグゾエ=イスバル。こちらも以前から武官としてメイルに信任され、メイルが子爵の位に就くと同時に子国の筆頭将軍に抜擢された人物である。
 「うむ、よくぞ言うた。」二人の賛同にメイルは顔をほころばせる。「では、ただちに、兵を整えハッシバル家を討つ手はずを……。」
 「子爵、なぜに、左様な事を仰せられますか。」その時、会議の末席から声が上がる。アンティルだった。「今の我が国に必要なのは、他国から領土を奪って国を広げることではなく、政(まつりごと)を正し、国内の憂いを除くこと。お考え直し下さい。」
 「何を言うか。令尹と将軍もハッシバル家を討つべしと申しておるのだぞ。余計な口を挟むな。」もともと自分の意見に異を唱えることが多かったアンティルの発言に、メイルは不興げに顔をしかめる。
 「いえ、お聞き下さい。そもそも今年は旱魃による不作で、民に一年の蓄えができるかさえ危ぶまれております。そこに戦が起きれば、兵糧の徴発や賦役(ぶやく)、徴兵によってさらに民が苦しむこととなります。しかもその戦は名目の立たぬ、勝敗も定かではない戦。長引けば民の不満が高まり、不測の事態を引き起こしかねませぬ。」
 「名目が立たぬというが、トパーナを我が国のものとするという書状が現にあると申しておるのだ。」
 「所詮は一片の紙切れに過ぎませぬ。」アンティルはかぶりを振る。「ましてや、その書状はティルドラス伯爵ではなくダン公子の名で出されたもの。ハッシバル家が認めるとは到底思えませぬ。」
 「ハッシバル家が認めるかどうかではなく、我が国がトパーナを領有する名目が立つことが重要なのだ!」アンベンバが居丈高に怒鳴った。「戦の名目正しければ、兵は勇み立ち、平素に倍する働きをする。そのことが分からぬか!」
 「アンティル、お前はいつも左様に異ばかり唱えておるが、いったいどのような策があるというのだ。せっかく手に入ったハッシバル家の国書を、役立てることもなく腐らせておけとでも申すのか。」メイルも不機嫌に言う。
 「むしろ、ティルドラス伯爵と深く誼(よしみ)を通じ、その輔(たす)けとなるのが上策。ダン公子からの書状はハッシバル家に丁重に送り返し、それをティルドラス伯爵との間に交わりを結ぶ糸口とすべきでございます。よろしければ私が使者に立ちたいと存じますが……。」
 「ハッシバル家に服従せよと申すのか?」あからさまに不快の表情を見せるメイル。

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