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ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(41)

第九章 位牌の前で(その1)

 交渉はすぐに始まったわけではなく、イックたちは数日の間、宿舎で待たされることになった。
 もちろん彼らもその間を無為に過ごしはしない。待たされている時間を利用して、ジョーはかつて恩を受けた商家の主人を訪れ、手厚く礼を述べるとともにティルドラス自筆の礼状を手渡す。
 ――あなたの助けがなければ我が臣ジョー=レックは旅先の病で命を落としていたであろう。そうなれば自分が彼を得ることもなかった。あなたの善意・慈愛は、この人心の荒れ果てた世に稀なものである。あなたの徳に報いるには足りぬが、この手紙といくばくかの金子をもって、その善行を世に顕(あらわ)したいと思う。どうかお納め願いたい――。それが礼状の内容だった。
 一国の主が家臣のため一介の町人に自筆の礼状を送り、丁重に感謝の言葉を述べた――。この話は、ティルドラスがミレニアとの婚約履行を正式に申し入れたという話と共に、たちまちアシュアッカの街に広まる。
 ――何と恩義に篤(あつ)く報いられる方ではないか。――
 ――聞くところでは、仁慈の君の名が高いそうな。――
 ――しかも武にも長け、わずかの間にバグハート家の領地を併せたと聞くぞ。――
 ――公女の婿君としても相応しい方と見える。――
 ――それよ、この婚儀によりハッシバル家と結ぶことができれば、公爵家の威信も、いよいよ天下に高まろうて。――
 ――めでたい事よ。――
 気の早い町人たちの中には、既に婚儀が決まった気分で家の軒先に祝いの赤布を掲げたり、宮廷に祝いの献上物を持ち込んだりする者も現れ始めた。
 こうした街の騒ぎをよそに、アシュアッカの宮廷ではイエーツの臨席のもと軍師・尚書たちを集めての評定(ひょうじょう)が開かれる。
 軍事国家の色が強いトッツガー家では宰相を初めとする行政官は単に国政に関わる事務処理を司るだけの立場であり、この軍師・尚書たちによる評定こそが、事実上、国としての意思・方針を決定する最高機関と言って良い。
 顔ぶれは錚々(そうそう)たるものである。居並ぶ者たちはいずれも天下にその名を知られた人材で、他国であれば一国の政治・軍事を任せられるだけの人物も少なくないとされる。
 「今回の縁談、軽々しく受けるべきではないと存じます。」まず、年の頃は三十前後、痩身で黒い肌、目元の涼やかな青年が口を開く。彼の名はボゴール=カフト。若年ながらゾーファンに次ぐ次席軍師の地位にあり、ゾーファンの跡を継いで公爵家の軍事全般を担う人材は彼以外にないだろうと言われている。「ハッシバル家と結ぶことは一見利があるように思えますが、手の届きにくいエル=ムルグ山地で割拠されては、将来、我が国にとって内部の憂いとなる恐れがございます。ここは慎重になるべきかと。」
 「私(わたくし)も次席軍師と同じ意見でございます。」身の丈六尺(ほぼ180センチ)、がっちりした体格の、年の頃四十過ぎの男性が頷く。ジェド=ティルウィック。トッツガー家の軍師の一人で、過去に数々の奇策を成功させ、天下にその名を知られていた。「そもそも、ミギル公子との縁談を反故にしてハッシバル家との縁談を進めては、マッシムー家の離反を招くことにも繋がりかねませぬ。」
 「あいや、しばらく。」年の頃は四十前後、浅黒い肌に黒髪、整った顔立ちの男性が手を上げて発言を求める。ヤヤン=イクセン。トッツガー家の尚書丞の最上席で、コダーイがフォージャー家に去った後、彼の穴を埋めてトッツガー家の内政全般を司ってきた人物である。「確かにマッシムー家との関係も重要ではございますが、もともとミレニア公女はティルドラス伯爵と婚約の仲。それを破ってはかえって天下の信を失いましょう。さらに、ハッシバル家と結ぶことができれば、先日も干戈(かんか)を交えたフォージャー家に対しては両国で東西から圧力をかける形が整い、将来的にアシュガル家と対決することとなった場合も、アシュガル家の盟邦であるミストバル家にハッシバル家を立ち向かわせることで戦いを優勢に進めることができるはず。私はこの縁談を機にハッシバル家との関係を深めるべきと考えます。」
 「同感でございます。」ヤヤンより少し若く、彼と似た顔立ちの人物が口を開く。キンダル=イクセン。ヤヤンの従弟で同じく尚書丞の地位にあり、ヤヤンと共に公爵家の内政を支えている。「私が聞き及びます所では、ティルドラス伯爵はさほど欲心の強い人物ではないようでございます。むしろミギル公子こそかなりの野心をお持ちの方、我が国にとって内部の憂いとなるのは、むしろそちらではありますまいか。ここはハッシバル家の申し入れを受けるのが上策かと存じます。」
 「受けるにせよ断るにせよ、まずはミレニア公女のお気持ちを確かめてはいかがでしょうか。」年の頃は二十代半ば、栗色の髪を長く背に垂らした女性が発言する。彼女の名はフワナ=ウェンバーグ。軍師の一人で、男尊女卑の風が強いトッツガー家には珍しく、女性ながら軍の高い地位にある人物である。イエーツの信任篤い軍師であった父が数年前に死去し、跡を継ぐ形で軍師となったが、その才は父を凌ぐのではないかと目され、ソン=シルバスも『ミスカムシル史大鑑』の中で、彼女とペネラ=ノイをこの時代の女性軍師の双璧として挙げている。「いずれにせよ、ハッシバル家とマッシムー家のどちらかに対しては縁談を断らねばならぬことになります。その際、ミレニア公女のお気持ちを理由とすれば、断るにしても幾分角の立たぬものとなりましょう。」
 『訊かずとも分かっておるわ。ミレニアはティルドラスを選ぶに決まっておる。』彼女の言葉に顔をしかめながら、イエーツは内心つぶやく。
 議論は次第に白熱し、激しい意見の応酬となる。
 ――どのような魂胆を持ってハッシバル家が近づいてきたものやら分かりませぬぞ。――
 ――それは邪推というものでは? 現在の両国の力の差を考えれば、ハッシバル家を過剰に恐れる必要は無用かと。――
 ――マッシムー家との誼(よしみ)についてはいかがお考えか。――
 ――ハッシバル家との縁組が、そのままマッシムー家の離反に繋がるわけではありますまい。――
 ――繰り返し申し上げるが、我が国にとっての利はハッシバル家と結ぶことにこそありましょう。――
 ――確かに当面の利はあるにせよ、長い目で見れば、寸を与えて尺を取られることになりますまいか。――
 結局、最終的な結論が出ぬままその日の評定は散会となる。「よろしくありませぬな。ここまで意見が割れるとは思いませなんだ。」イエーツと共に部屋を退出しながら、ゾーファンはかぶりを振る。もともとトッツガー家は家臣たちの一致団結を重んじる風があり、たとえ異論があったとしても最終的には一つの目的に向かって結束するのが常だった。「斯様(かよう)に足並みが乱れておること自体、既にハッシバル家に主導権を握られておると言わざるを得ますまい。」
 「ティルドラスめ、やりおるわ。」多少の悔しさと感嘆が入り交じった口調で、イエーツはつぶやくように言う。

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