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時事無斎ブックレビュー(14) 余は如何にしてネット発ファンタジー小説に幻滅せし乎(中編:「時事無斎のなろう系指数」の提唱)

 前回は、ネット発のテンプレ化された粗製濫造ファンタジー作品が抱える種々の問題点について考えてみました。

※前編:ネット発テンプレファンタジーが抱える問題点

 こうした作品を指すのによく使われるのが「なろう系」という呼称です。もともと小説投稿サイトの最大手「小説家になろう」にその種の作品が多かったことから広まった言葉ですが、現在は「小説家になろう」に限らず同じような傾向を持つ作品全般を示す一般名詞となっていて、「なろう発ではないなろう系作品」「なろう発だが非なろう系の作品」のように、よく考えると少々矛盾した使われ方をされることもあります。
 しかし、具体的に「なろう系」とはどのような作品を指すのかを定義しようとすると、実は簡単には行きません。ネット発や「小説家になろう」の作品イコール「なろう系」というわけではありませんし、なろう系の典型のように思われている異世界転移・転生ものにしてもチートものにしてもハーレムものにしても、実際は昔から存在するもので、それをテーマに書かれた名作や古典も数多く存在します。何せ日本最初の物語文学からして、一種の異世界転生チート逆ハーレムものと言えなくもありません。

 こうした問題があるためか、しばしばなろう系作品のファンから「『なろう系』という言葉はアンチが気に食わない作品に実態のないレッテルを貼って叩いているだけ」「○○(古典・有名作品)だって××の要素があるんだからなろう系」のような声が上がります。しかし本当にそうでしょうか? 実は私自身は「なろう系」とはかなり客観的かつ明確に定義できるものではないかと考えています。
 よく似た例として「カルト」があります。実は「カルト」を定義する単一の要素のようなものはありません。しかし「教義・指導者への絶対的な服従の強制」「信者に対する経済的・性的な搾取」「外部との情報・交流の遮断」「科学的・客観的な事実の否定」などの特徴的な条件を一定数満たすかどうかで、その集団が「カルト」かどうかを判定することは比較的容易です。
 というわけで、以下、ある作品が「なろう系」かどうかを判別する基準を私なりに考えてまとめてみました。名付けて「時事無斎のなろう系指数」です。


1.主人公のためだけに存在する物語世界(2ポイント)

 物語の舞台となる世界が全て主人公(=作者・読者の感情移入先)のためだけに存在しているような作品です。いわゆる転移・転生ものでは、現世でうだつの上がらなかった主人公がこうした「都合の良い世界」に生まれ変わるのがテンプレとなっています。主人公は物語世界の中で唯一の特権的な地位を与えられ、やることなすこと全てがうまく行き、異性からの愛情や周囲の信望などを一身に受け、時には技術や知識さえ独占します。中には、主人公の優位を際立たせるために物語世界の住人たちをあまりに愚かで無力に設定した結果、主人公がいない状態でどうやって社会秩序が維持されてきたのか疑問に思うような作品さえみられます。主人公の優遇は時として道徳や社会規範にも及び、主人公の欲望や行動は普通であれば社会通念上許されないようなものさえ、物語世界の内部でもメタ的にも、なぜか無条件に肯定されてしまう例がしばしば見られます。

マイケル=ボンド『くまのパディントン』

 「主人公のやることなすこと全てが、なぜかうまく行く」という話であれば、こういう作品もあります。まあそれも主人公・パディントンが関わるのが身の周りの小さな出来事ばかりだからこそ物語が成り立つわけで、天下国家や社会の命運にまで話を広げてしまえば、それこそ一部のマニアがツッコミを入れて面白がるだけの珍作にしかならなかったでしょう。

2.物語世界の中で絶対的な地位や力を与えられ、かつそれに対するリスクや責任を負わない主人公(2ポイント)

 いわゆるチートものがこれに該当するでしょう。主人公が(しばしば何の必然性もなく)世界を変えるような絶対的かつ唯一無二の力やアイテムを与えられ、力に伴うリスクや責任などはほぼ負わないまま、その力を使って気ままにふるまう、というのが基本的なパターンです。
 念のため言っておくと、「無敵の力」そのものはむしろスーパーヒーローものなどでも定番で、米国のマーベルヒーローあたりも単独での出演作ではその世界で唯一無二の絶対的な力を与えられているわけです。ただ、そうしたヒーローは一方で力に伴うリスクや責任もきちんと負っている点が、多くのなろう系作品とは根本的に異なる点です。

『帰ってきたウルトラマン』上原正三・本多猪四郎ほか、1971~1972年

 怪獣の襲来から子供と犬を守って命を落とした青年・郷秀樹は、彼の行動に心を打たれたウルトラマンに命を預けられ、超人的な力を得て復活した。その力を見込まれて対怪獣戦隊・MATの一員となった郷。しかし時には自分が得た力の大きさに慢心し、時にはその力ゆえにMAT内部で孤立することになる。一方のウルトラマンも次々に襲い来る強大な敵に苦戦を続け、さらに郷との人格融合により人間としての弱さまで持ってしまう。やがて戦いの中で愛する者も帰る場所も人間として持っていた夢も全て失った郷は、死んでしまった恋人の弟である少年に「ウルトラの五つの誓い」を教えて、ウルトラマンと一体化したまま地球を去るのだった――。
 改めて書くと、ウルトラマンの力を得ても、結局のところ郷秀樹は幸せになどなれなかったのだと感じます。力を得ることがそのまま幸せや問題の解決につながると脳天気に信じ込むのではなく、「力」というものの限界や負の側面もきちんと認識する視点を持つことが、世に溢れるウェブ小説にももっと必要なのではないかと思うのです。

3.主人公の私欲の全肯定と人権・社会的公正への無関心もしくは否定的な態度(2ポイント)

 なろう系作品を読んでいると、禁欲的かつ他人に対して謙虚に振る舞う主人公が他の作品に比べ少ないと感じます。性欲であれ物欲であれ権力欲であれ、主人公の欲望は大体において肯定され、「主人公が欲望のままに振る舞うほど大きな力を得られる」という作品さえ複数目にしました。秩序が崩壊した世界で主人公がチートパワーを手に入れたのを良いことに物資を独り占めしたり女性に性的な関係を強要したりする作品に至っては個人的に不快感なしには読めないのですが、なろう系作品の作者や読者にはそういう感覚はないのでしょうか。
 主人公の欲望が肯定される一方で、他人の人権や尊厳、社会的公正などはしばしば軽視されます。単なる軽視や無関心ではなく、人権や社会的公正、博愛主義、理性・教養といったものに対する露骨に侮蔑的・嘲笑的な姿勢がしばしば見られるのも気になるところです(注1)。前回取り上げた奴隷制に対する擁護・美化なども、こうした傾向と関連しているのでしょう。
 「物語の世界には人権という概念などないのだから、主人公が人権を尊重しなくてもそれは当然」のような擁護論をよく見かけるものの、そんな社会でも主人公だけはなぜか過保護なほどに自分の権利や意思を尊重され、他人から受けた些細な権利の侵害にもチートパワーを使って報復したりしています。自分だけを絶対安全圏に置いたまま「そういう世界だから」のような擁護論を持ち出されても、はっきり言って説得力はありません。

注1:このあたり、いわゆるネトウヨ思想との親和性が以前から指摘されています。

4.主人公の行動原理がネガティブかつ自己中心的(1ポイント)

 なろう系作品でしばしば目にするのが、暴力や復讐、他者の支配や尊厳の破壊といったネガティブな行動原理で動く主人公です。最近目にしたある作品でも、主人公が「なぜ人を殺してはいけないのか理解できない」という言葉を平然と口にしていて唖然としました。しかも主人公がそういう価値観を持つに至った理由について説明がなかったり、説明があっても「そんなことで?」と思うようなつまらない理由だったりすることが少なくありません。最近よく見かけるいわゆる「追放もの」にしても、それほど力があるのなら、自分を追い出した昔の仲間への復讐をうじうじと考えるより自分の力を生かせる新天地をさっさと見つけてそこで実力を発揮した方がよほど建設的で当人的にも幸福だと思うのですが、なぜか主人公にそういう発想はないようです。
 これも、単独であればピカレスクやバイオレンスアクションなどの主人公にもよく見られる性格ではあります。ただ、なろう系作品の場合、主人公のそうした行動や思考がなぜかメタ的にも肯定・擁護されてしまう例が多く、読んでいてどうも釈然としません。

『ジョーカー』トッド=フィリップス監督、2019年

 バットマンの宿敵であるジョーカーはいかにして誕生したのか、に視点を当てたスピンオフ作品。コメディアンとしての成功を夢見る心優しい青年が、社会の不平等や理不尽、暴力、個人的な不幸や不運に苦しむ中で次第に理性を崩壊させ、社会に不満を抱く大衆によって悪のカリスマへと祭り上げられていくまでを描いた物語です。私自身は世間での評価ほど面白いとは思いませんでしたが、人間のネガティブな感情を作品の中で取り上げるのであれば、こういう作品にも目を通しておくべきでしょう。

5.既存のゲームや先行作品の要素を継ぎ合わせたストーリーや世界設定(1ポイント)

 要するに独自性の欠如、テンプレに頼った作品です。なろう以前にも、いわゆる架空戦記や萌え系作品にもこうした例がうんざりするほど見られました。そういう過去の作品がどの程度今のなろう系作品と共通しているのか、この採点表を基準にチェックしてみても良いかもしれません。
 断っておくと、ゲーム的な世界設定を作品に持ち込むことがそのまま独自性の欠如を意味するわけではありません。最近読んだ『葬送のフリーレン』では「勇者と魔王」「異種族と人間が混在するゲーム風異世界」といったなろう系と共通する要素をちりばめながら、独自の壮大な世界が構築されていて感嘆しました。そちらについては機会を改めて再度紹介します。

グレゴリウス山田『竜と勇者と配達人』

 以前別のところでも取り上げた作品です。こちらは、ありがちなゲーム風の世界設定に見られるさまざまな概念を、作者の造詣が深い中世ヨーロッパの文化・風俗にこじつけて再解釈したパロディ的な内容となっています。こういうしっかりした知識に基づいた作品が9巻で打ち切りとなる一方で、単に主人公がチートパワーで暴れては女性をハーレム入りさせるというパターンが延々繰り返されるだけの作品がダラダラと連載され続けているのを見るにつけ、出版社の皆さんはいったい何を基準に作品の善し悪しを決めているのかと疑問に思わざるを得ません。

6.物語の根幹に関わるレベルでみられるストーリーの矛盾や科学的・歴史的な事実の誤り(1ポイント)

 一言で言ってしまえば「下調べや才能の不足」です。考証がずさん、ストーリーや世界設定に破綻レベルの矛盾が存在する、重要な用語や概念が全く誤った意味で使われている(注2)、作品の基本的な部分に科学的・歴史学的な誤りがある――。こういう作品が、単に「ネットで人気・話題」というだけで安易に書籍化されてしまう風潮は何とかならないものでしょうか。
 もっとも、それまでの定説が新たな発見によって覆されるような場合もあるので、作品の細部に科学的・歴史的な誤りが出てくるのはある程度不可避でもあります。特に昔の作品についてはあまりやかましく言うべきではないかもしれません。このあたり、いわゆる「ジャガイモ警察」に関する議論とも関連しますが、それについてはまた別の機会に。

注2:例えば、別のところで書いたように将来の隠者生活を志している身としては、「スローライフ」が「田舎で女の子たちを侍らせながら無責任かつ怠惰な生活を送ること」のような意味で使われていることに憤慨を禁じ得ません。そういう暮らしを望まないわけでは必ずしもありませんが、少なくともそれは、本来の「スローライフ」ではありません。

 以上のチェックリストで該当する項目のポイントの合計が6ポイント以上あれば、その作品は「なろう系」とみなして良いのではないかと考えています。思い当たる作品があればチェックしてみて下さい。逆に、明らかになろう系ではない作品をこのチェックリストに当てはめた場合にどのような結果になるか確かめてみるのも面白いでしょう。
 強調しておきたいのは、このチェックリストで取り上げた要素の一つ一つは、必ずしも「なろう系」に特有のものではないということ、逆に言えば、なろう系で多用されるテンプレ要素を持った作品にも古典や名作はあるということです。次回はそういう作品と「なろう系」との違いについて考察していきたいと思います。

※後編:テンプレ要素作品考


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