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ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(37)

第八章 結婚外交(その2)

 数日のうちに準備は全て整い、あとはパドローガルの銀器を入手するだけとなる。
 たとえ銀器を手に入れたとしても、ハッシバル領を出る前にそれが露見して途中で奪い返されてしまっては意味がない。それを避けるため、イック・ジョー兄弟とオールディンの三人は、わずかの供回りとともに目立たぬよう先発し、国境の城・ティルムレチスで銀器の到着を待つ手筈となった。幸いティルムレチスの守将・グスカはティルドラスが信頼する腹心の一人である。ティルドラスは彼に対して、アゾル=ザッカ麾下の忍びに書簡を持たせて密かに協力を要請した。折り返しグスカのもとから伝書鳥で、了承と成功を願う旨の返事が届く。
 パドローガルの銀器が保管されている宝物庫の取締役はサフィアの取り巻きの一人である。これといった落ち度があったわけでもない前任者を彼女に讒言して左遷に追い込み、自分がその後釜に収まった男で、当然、ティルドラスのやろうとしていることに目をつぶってくれる相手ではない。したがって、銀器の持ち出しは彼の目を盗んで行う必要がある。
 イックたちを送り出した数日後、ティルドラスが、大きな行李(こうり)を背負った二人の従者――変装した「蝉」と「蜘蛛」である――を連れて宝物庫に姿を見せる。「何か良い本がないか探しに来た。」慌てて彼を出迎える取締役に向かってティルドラスは言う。「あと、部屋に置いていた調度品が片端から債権者に持ち去られて身の周りが寂しい。何か良いものがあれば持ち帰りたいと思う。」
 「それは構いませぬが、定めでございますので、行李の中を改めさせていただきます。」と取締役。保管されている宝物を、外から持ち込んだ偽物とすり替えて持ち出す可能性に気付かぬほど彼らも馬鹿ではない。たとえティルドラスでも、宝物庫に行李や箱を持ち込む場合は、出入りの際に中身を調べられるのが決まりだった。
 言われるまま、行李の蓋を開けて中を彼に示す「蝉」と「蜘蛛」。見たところ行李は空で、特に怪しいものは入っていない。
 「結構でございます。お入り下さい。」頷く取締役。
 入り口と、ずっと上の天窓からわずかな光が差し込むだけの薄暗がりの中、ティルドラスは取締役に先導されて階段を上り、建物の二階の裏手、パドローガルの銀器が保管されている場所の近くで足を止める。「まずはこのあたりで探してみたい。窓を開けてくれぬか。」とティルドラス。
 宝物庫は木造で本や書画などの可燃物も多いため、中では原則として火は使用禁止である。したがって明かりは窓を開けて取り込むことになる。木製の扉に漆喰を厚く塗って壁と一体化させた手近の窓が開かれ、宝物庫の中に光が差し込む。
 開いた窓から何気ない様子で外を眺めるティルドラス。宝物庫を囲む高い屏を隔てて正面に見下ろす位置に一本の太い木があり、その傍らでキーユとサクトルバスが彼の姿を認めて手を振るのが見えた。二人の様子を確認し、傍らの「蝉」に目配せをするティルドラス。「蝉」は小さく頷くと、右手で床下を指さしながら、左手で何かの印を切る。
 と、宝物庫の階下から、がらがらがらがしゃーんと、何かが崩れるような大きな音が響く。「あれは!?」驚く取締役。
 「棚板が落ちでもしたかな。」とティルドラス。「何か壊れていなければ良いが。」
 「見て参ります!」そう言い残し、取締役は慌てて階段を下りていく。
 「『蜘蛛』!」彼が階下に姿を消すのを確認し、小声で「蜘蛛」に声をかけるティルドラス。彼の声に応じて「蜘蛛」が横に薙ぎ払うように手を振り、宝物庫の窓枠とキーユたちの傍らに立つ木の幹との間に、細い、しかし強靱な一本の糸が張られる。
 同時にティルドラスと「蝉」が行李を開く。実はこの行李は二重底になっており、偽の底の下に作られた隠し場所には、本物とすり替えるための偽の箱と、本物を入れる布袋が納められていた。布袋の口は紐で締めるようになっており、その紐の先に木製の滑車が取り付けられている。
 パドローガルの銀器が入った箱を棚から下ろして片端から布袋に詰め、滑車で窓の外の糸に引っかけるティルドラス。吊された袋はそのまま、下で待つキーユとサクトルバスのもとに、滑車にぶら下がった形でころころと転がり下っていく。手元に届いた袋を糸から外し、傍らの背負い籠に素早く詰める下の二人。その間に「蝉」と「蜘蛛」は、偽物の箱に服のあちこちに仕込んでいた鉛の塊を詰めて重みを持たせ、本物の箱があった場所に並べていった。
 わずかの間に、銀器の持ち出しと箱の入れ替えは終わる。キーユとサクトルバスが用意してあった芋で銀器の上を覆い、菜園で芋の収穫でも済ませてきたかのような様子で籠を背負って歩み去るのを確認したあと、ティルドラスは素知らぬ顔で、棚に並んだ調度品の品定めを始める。
 間もなく、宝物庫の取締役が首をかしげながら彼らの元に戻ってきた。「はて、面妖な……。何事もございませんでした。」
 「何事もなければそれに越したことはない。」とぼけた様子でティルドラスは言う。「書画は良いものが見当たらなかった。本は、この『イームガー家三代記』を持ち帰りたい。」
 「承知いたしました。」頭を下げる取締役。
 こうして疑われることもなく宝物庫を後にし、自室に戻るティルドラス。そこには既に、キーユとサクトルバス、そしてアンティルが、パドローガルの銀器を前に彼の帰りを待っていた。「おめでとうございます。これで縁談は大きく成功に傾いたと考えて良いかと。お喜び申し上げます。」アンティルが言う。
 「お前が策を立ててくれたおかげだ。なんとかうまく行った。」頷くティルドラス。
 ただちに箱が開かれ、銀器の点検が行われる。「これがパドローガルの銀器でございますか。私自身はバグハート家に仕えていた折、メイル子爵の宴席で遠目に二度ほど見たきりでございました。」とアンティル。
 「私自身も数回、やはり遠目でしか見たことがない。」ティルドラスも頷く。この銀器が実際に使われるのを目にしたのは幼いころ、父のフィドル伯爵の宴席でのことで、その時の記憶はほとんどない。銀器がハッシバル家に取り戻されてからも、彼自身はこの銀器を使うような饗宴を主催したことがなく、宝物の検分などで箱に収められた状態のものをただ眺めて確認するだけだった。「城一つに匹敵する価値というが、どこにその価値があるのかよく分からぬな。噂では、見る者を虜にする魔性の力が込められているとさえ言われているそうだが――。」
 「本来、このような美術品・工芸品に、本当の値というものはございませぬ。世人がこぞって褒め称えればその値は城一つに匹敵するものとなり、世人が見向きもしなければ単なる銀の塊と変わらぬ値となります。」
 「そういうものなのか。」
 「はい。そして今我らに求められるのは、その世人の評判を利用して、トッツガー家が我らの求めに応じざるを得ぬような状況を作り出すこと、それのみでございます。」
 その場にいる者たち全員で、傷や汚れがないかの子細な点検、目録と照らし合わせながらの種類・数の確認が行われたあと、銀器は絹の布で包まれ、丁寧に箱に戻された。箱の周囲に儀礼用の綬(くみひも。リボン)が掛けられ、婚姻の贈り物だけに使用される大きく複雑な結び目をキーユが注意深く作る。最後に結び目の上に封蝋が形良くたらされ、ティルドラス自身の印章がそこに押されて箱は封印される。
 「ふう。緊張した。」全ての箱の封印を終え、額の汗を拭いながら、ティルドラスは大きく息をつく。
 「では、直ちに銀器をティルムレチスに送る手配を。」アンティルが言う。

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