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いつも誰かに助けられている

高校1年生に対して、「問いを立てる」という授業をする予定。
いろいろ準備をしてて、
いくつかグループワークをつくっているが、
そのなかに「自分たちで授業をつくってみよう」というワークを思いついた。
早稲田大学の大隈塾(「たくましい知性を鍛える」)でやっていたことだ。

ゲスト講師を自分たちで選んで、
その人からどういう学びを得たいか考える。
ゲスト講師は大谷翔平とかあいみょんとか、
実現可能かどうかは別にして、
とにかく「会いたい人」を優先して、学びを組み立てる。

って資料をつくってて「はっ」とした。

いまの高校1年生って、どんな人に会いたいんだろうか……。

そこで、大隈塾にいた学生たち数人に、
「釜石高校で「自分たちで授業をつくろう」ワークショップやるんだけど、もしいま高校1年生だったら、誰を呼んでどんな学びにする?教えて欲しいです」
とLINEを打ってみた。

どんな人を推薦するかなあ、
大隈塾のときは、みんなけっこうアンテナ立ててて、
わたしがまったく知らない人たちを候補に上げてたなあ、
とワクワクして返事を待っていた。

しばらくすると、
「お久しぶりで〜す」
と回答がいつくか返ってきた。

そのひとつひとつが、目からウロコだった。

もし今高校1年生だったら、色々な経験をしている高校3年生や大学1・2年生を呼びます。受験勉強など勉強面の経験についてではなくて、例えば留学に行った人や学校外活動をしている人、面白い趣味を追求している人などのお話を聞きたいです。

僕だったら、同じ高校出身の早稲田や東京の大学に進学された人に高校時代から見えてる大学やその後の選択と大学に行ってみての実際の見えてる景色の違いを聞いてみたいなと思います。

自分の場合は大学進学が憧れだったので、普通に大学生を呼んで受験の気持ちを高めたいと思います!

わたしの目線とはまったく違った目線だった。
わたしの「誰かゲスト講師」は、
有名無名にかかわらず、なにかことを成している人であって、
その人たちの成功談失敗談から「学び」を得ようとしていた。

大学生は「大学生」を設定してきた。

なぜなら、

大学生になってから考えると、高校生は自分のいる学校や家族といった、限られたコミュニティに縛られがちだと思います。外の世界に踏み出すきっかけ(サードプレイスっぽいものを得る)となる学びを得たいです!

そうだった。
わたしの高校1年生は昭和何年だろうか。
わたしの大学1年生も昭和何年だっただろうか。
そのわたしがわたしの目線と過去の記憶で、
高校1年生に「授業をつくってみよう」と呼びかけたとしたら、
とんでもないことになっていただろう。

そんなことを気づかせてくれて、うれしかった。

こんな提案もあった。

対象:小学6年生
授業内容:これから小学生が進む中学校について、どんなところかをまず紹介して、そのあと双方向で、高一からみた小学生でしかできないことは何かとか、小学生からみた中学,高校のいいところは何かを議論する
というのも、面白いかなと思います!どうでしょうか?

自分たち(高校1年生)がゲスト講師になる、ってことだ。
逆転の発想、まったく思いつかなかった。
すばらしい。

自分たちの興味あるテーマを高校生が決める→むらさんがこんな人知り合いにいるけどどう?と高校生に提案→高校生に最終的に呼ぶ人を決めてもらい、講演会やワークショップをするなんてどうでしょう?

オトナを巻き込む。巻き込まれたオトナは、選択肢を提示する。
発想と決定する権利は学ぶ側にある。

来週から教育実習に出かける学生からは、

むらさん、おたがいにいい授業をつくっていきましょ〜!

と。
フラットな関係。
わたしに対してそんな感覚をまだもっていてくれて、
とてもうれしかった。

それにしても、わたしはいつも学生たちに助けられている。
いや、学生たちだけじゃない。
いつも誰かに助けられている。