いつも誰かに助けられている
高校1年生に対して、「問いを立てる」という授業をする予定。
いろいろ準備をしてて、
いくつかグループワークをつくっているが、
そのなかに「自分たちで授業をつくってみよう」というワークを思いついた。
早稲田大学の大隈塾(「たくましい知性を鍛える」)でやっていたことだ。
ゲスト講師を自分たちで選んで、
その人からどういう学びを得たいか考える。
ゲスト講師は大谷翔平とかあいみょんとか、
実現可能かどうかは別にして、
とにかく「会いたい人」を優先して、学びを組み立てる。
って資料をつくってて「はっ」とした。
いまの高校1年生って、どんな人に会いたいんだろうか……。
そこで、大隈塾にいた学生たち数人に、
「釜石高校で「自分たちで授業をつくろう」ワークショップやるんだけど、もしいま高校1年生だったら、誰を呼んでどんな学びにする?教えて欲しいです」
とLINEを打ってみた。
どんな人を推薦するかなあ、
大隈塾のときは、みんなけっこうアンテナ立ててて、
わたしがまったく知らない人たちを候補に上げてたなあ、
とワクワクして返事を待っていた。
しばらくすると、
「お久しぶりで〜す」
と回答がいつくか返ってきた。
そのひとつひとつが、目からウロコだった。
わたしの目線とはまったく違った目線だった。
わたしの「誰かゲスト講師」は、
有名無名にかかわらず、なにかことを成している人であって、
その人たちの成功談失敗談から「学び」を得ようとしていた。
大学生は「大学生」を設定してきた。
なぜなら、
そうだった。
わたしの高校1年生は昭和何年だろうか。
わたしの大学1年生も昭和何年だっただろうか。
そのわたしがわたしの目線と過去の記憶で、
高校1年生に「授業をつくってみよう」と呼びかけたとしたら、
とんでもないことになっていただろう。
そんなことを気づかせてくれて、うれしかった。
こんな提案もあった。
自分たち(高校1年生)がゲスト講師になる、ってことだ。
逆転の発想、まったく思いつかなかった。
すばらしい。
オトナを巻き込む。巻き込まれたオトナは、選択肢を提示する。
発想と決定する権利は学ぶ側にある。
来週から教育実習に出かける学生からは、
と。
フラットな関係。
わたしに対してそんな感覚をまだもっていてくれて、
とてもうれしかった。
それにしても、わたしはいつも学生たちに助けられている。
いや、学生たちだけじゃない。
いつも誰かに助けられている。