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世の中、「職業選択の自由」といいながら、
「職業選択の義務」を押し付ける。

夢を持ちなさい。
自分の「好き」を見つけなさい。
就職があなたの一生を決めることだから、
早く好きなことを探して、
それにあう会社に就職しなさい。

というのが息苦しかった。

小説家の平野啓一郎さんは、
個人とか「わたし」をもっと軽くしたい、と思った。
長いこと考え続けて、『私とは何か』の「分人主義」が実を結んだ。

小学生のこと、国語で読まされる夏目漱石にピンとこず、
でも三島由紀夫にはときめきを感じた。
学校にいる自分と、家で三島由紀夫を読んでいる自分、
どっちがホントの自分なのか、と悩んだのが最初の一歩。
ホントの自分と、仮面の自分。
たぶん三島を読んでいる自分がホントだ、と思った。

その一方で、メディアに出てくる、
個性をちゃんともった、
自分らしく生きている人たちにあこがれた。

高校生になって、大学とその先の就職が視界に入ってきた。
終身雇用だから、自分が好きな仕事をしないと、
長い人生、耐えられない。
じゃあ、小説を読むのが好きな自分は、
どんな会社に行けばいいのか。

またまた、自分がわからなくなる。

結局、中世キリスト教的「個人=individual」、
たったひとつで分けることができないもの、の反作用としての、
近代のペルソナ=仮面を被ったもう一人の自分、が生まれ、
「もう一人」じゃなくて、「もう何人」もの自分がいることが、
当たり前なんじゃないだろうか。
つまり、対人関係によって変えていく自分がいくつもあって、
状況、場所、仕事によって変えていく自分もある。

対人関係、場所ごとの自分の集合体が「自分」であり、
その「自分」の大きさ、小ささ、カタチは自在で、
それぞれに「自分」というアイデンティティがある。
アイデンティティは分けることができるのであり、
それが「分けることができない=individual個人」に対する、
「分けることができる=dividual分人」。

中には、好きな自分がいて、あまり好きじゃない自分もいて、
なにか得意な自分がいて、不得意な自分がいて、
いくつもの自分がいることが、
生きていく上での足場をいくつも持てる、
踏ん張りどころが増えることになり、
先が読めない世の中では、
それが変化に対応できる能力だということになる。

多様化しなければいけない社会で、
分断が進んでいる社会では、
相手に合わせる分人でこそ、対応していけるのだろう。

平野啓一郎さんは、
「10代20代のころって、
どの自分がホントなんだろう、って恐怖とか不安に、
強く襲われるんですよね」
と。

そっか、と思った。
だから学生は、平野啓一郎さんをゲスト講師に招いたのか。
ゲスト講師を選定するミーティングで「平野啓一郎」がでたとき、
「なんで?」と思った。
売れてる作家だし、社会的な発言もきちんとする小説家だけど、
大隈塾でのゲスト講師ねえ〜〜〜、
というわたしの感性は、まったく的が外れていた。