大隈塾発足記念シンポジウム

大隈塾をぶっ壊せ!

大隈塾の歴史を話した。
2002年から始まった、ので、
受講生は驚いていた。
4歳から2歳。
そんなときに、大隈塾はスタートした。

4月15日、第1回はシンポジウムだった。
開会は奥島孝康総長、
基調講演を小泉純一郎首相、
パネリストは筑紫哲也さん、寺島実郎さん、田原総一朗さんほか、
司会は田中愛治先生、今の総長。

大隈塾は、正式な科目名を「21世紀日本の構想」といった。
21世紀になったばかり、
ジャパン・アズ・ナンバーワンをもう一度、という意気込みを示した。

全30回、毎回ゲスト講師を招いて、
田原総一朗さんがファシリテーター、
高野孟さん、岸井成格さんも毎回出席して、
質疑応答のときに鋭い質問を連発していた。

ゲスト講師は、閣僚、野党の党首、大企業の社長、官僚。
テレビ番組をライブで見ているようだった。

定員220のところ、500人を超える学生が応募した。
毎年毎年、220人を選ぶのが大変だった。

だけど、やがて応募の学生が減ってくる。
だんだん減ってくる。
定員を150人に変える。
220人が科目登録しても、
実際に出席するのは150人ぐらい。

ゲスト講師にも、NPOや社会起業家、若い経営者も招くようにした。
プロップステーションのナミねぇ(竹中ナミさん)の講義は、
毎回泣いたり笑ったり、大変だった。

学生のニーズを気にしないことはなかったが、
大政治家、大経営者以外を呼ぶことに
依然として難色を示す人もいた。

それでも、2010年ごろには、
前期後期のうち、後期は定員割れするようになっていた。

教員側は、学生のせいにしていた。
勉強不足だと。
これだけいいゲスト講師を揃えているのに、
その価値に気がついていない、と。

大隈塾終了説も聞こえるようになった。
華々しくスタートした反動で、敵も多かった。
大隈、を名乗っている掟破りに、批判も多かった。
だから、人気がなくなってきた大隈塾に、
大学からの目は冷たくなっていた。

大隈塾ゼミの学生たちも、それに気がついていた。
何度も「大隈塾リバイバルプラン」を立ててみるが、
動きは鈍かった。

ついに、というか、本気になったのは、2016年。
大隈塾15年目。
潰されるのならば、この年度だろう。
ゼミ生は先手を打つ。

「大隈塾をぶっ壊しましょう!」

残しましょう、お願いします、ではなかった。
大隈塾は役割を終えました。
ここらで幕を下ろしましょう、と自分たちから宣言した。

そして、新しい大隈塾をつくりましょう。
もう一度、早稲田大学のカンバンになるような授業を。
そのために、
・学生が主体
・アクティブラーニング
・プロジェクト
のみっつの柱を立てる。

このプレゼンテーションを大学はひとまず聞いてくれた。
大隈塾が所属しているグローバルエデュケーションセンターの所長が
田中愛治先生だったのも幸運だった。
田中先生がプレゼンを受け入れ、
教務部長につないでくれ、
「やってみてください」、と激励してくれた。

たぶん、いや絶対に、ゼミ生たちの熱意がなければ、
大隈塾は本当に役割を終えていただろう。
「残してください」と哀願していたら、
聞き入れてくれなかっただろう。

自分たちの手で叩き壊して、
自分たちの手で新しい授業をつくる。

新しい科目名は「たくましい知性を鍛える」。
学生たちのチャレンジが始まった。