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釜石までの道〜2011年から2020年まで②

初めての釜石だった。
4月30日。

市内に入る前に、松倉にある釜石シーウェイブスのクラブハウスにいって、
事務局長だった増田久士さんと打ち合わせ。
ヤマハジュビロ磐田のラグビー部とシーウェイブスが、
復興のための試合をすることができるかどうか。
そのときにどんな段取りが必要か。
ボランティア活動はどういうことになるか。
などなどを打ち合わせ。

ホワイトボードをつかって打ち合わせするキヨさんと増田さん

それから市内に向かっていったが、
津波の被害にあってない地域を通っているときは、
ふつうの様子というか、遠野の街とそれほど変わらない。

ところが、甲子川を渡って、製鉄所を右に、釜石駅を左に見て、
ふたたび別の橋で甲子川を渡ると、市街地に入る。

様子は一変した。
がれきは片付けられていたが、
建物はダメージを受けたまま、放置されていた。
モノが腐乱したようなニオイもする。

釜石港にいくと、
大きな船が岸壁に打ち上げられていた。
「アジアンシンフォニー号」、パナマ船籍の大型貨物船。
テレビで見た光景だった。

アジアンシンフォニー号 7月になってようやく海に帰された

街なかとは違って、港はがれきの撤去もまばらにしかされてなく、
流されてきた写真が、もの悲しかった。
この人たちの無事を祈るしかなかった。

大槌町へ移動して、高台にある城山公園から街の中心部を見ながら、
大槌の被害の様子を増田さんから聞いた。
津波で壊され、流され、プロパンガスに引火し、
燃えるものがなくなるまで燃やし尽くした。

大槌町から北へ少しいった吉里吉里では、
仮設住宅を見学できた。
まだ未入居だったから、
中まで見学することができた。

釜石まで帰ってきて、15時すぎ、
キヨさん(清宮克幸さん)はゼンコーさん(髙橋善幸)さん)といっしょに、
野田武則市長との面会、支援物資を渡した。
フランスのラグビー関係者から送られてきたTシャツに、
俳優の吉永小百合さんが「がんばろう!釜石!」とサインした。

左から野田武則釜石市長、ゼンコーさん、キヨさん

ここまでで、わたしは釜石を離れざるを得なかった。
翌日は、早稲田大学大隈塾の学生やOGOBたちとの田植えがスケジュールに入っていた。
毎年恒例、千葉の鴨川自然王国での田植え。

JR釜石駅から釜石線に乗って、新花巻駅を目指した。

汽車の窓から釜石の街を見ながら、
昨日の朝からこのときまでのことを振り返っていた。

まさか、「いまいるから、むらさんの家の前に」でクルマに乗るなんて。
福島県に入ると道が波打つようになる高速道路。
北に向かっている人たちは、みんな悲痛な気持ちなんだろう。
親族や友人知人の安否を確認しにいっているのかもしれない。
……ということを考えながら、夜になって遠野に着く。
とりあえず、冷めたお弁当を食べて、
オフロに入って寝る。
そして朝になり、朝の弁当を食べて、釜石へ。
港で動かなくなった大きな貨物船、
ニオイが漂う、クラッシュした街。

釜石という街で、
自分にはなにができるんだろう。
なにをすれば、どうすれば役に立てるんだろう。

ほんの5日前に区議会議員選挙に落ちて、
何もやる気がなくなった自分に、
カチッと音がしたような、
一筋の光が射したような気がした。

思いついたのは、ラグビー部の合宿。
息子が青山学院中等部のラグビー部に所属していて、
彼らが釜石で合宿をしたらどうだろうか。
合宿できるだろうか。

そんなふうに、増田さんにメッセージを出した。

「おもしろい。やろう」

という感じの返事がきた。