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首塚の改修で目覚めるのは怨霊か英霊か!? 平将門と消された北斗七星王朝の復活/古銀 剛

令和3年4月、東京に新風が湧き起こった。平将門の霊が眠る東京・大手町の首塚の改修が完了したのだ。
コロナ禍の今、東京一、いや日本一のパワースポットがリニューアルされたことは、いったい何を意味するのか。しかも今回の改修にあたっては、ある「秘儀」が行われたという。将門が信奉した秘教と首塚の真実に迫る!!

文=古銀 剛 イラストレーション=久保田晃司

三上編集長による解説動画はこちら


序章 甦った東京の首塚

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大規模な改修工事が行われて新しくなった東京・大手町の将門塚。
今年4月26日に竣工式典が行われ、一般人も参詣可能になった。

 高層ビルが林立する東京の大手町。皇居・大手門の東側に広がる、東京、いや日本のビジネス街のまぎれもない一大中心地である。
 このあたりは、江戸時代には大名屋敷が建ち並んでいた。明治時代から昭和戦前・戦中にかけては、大蔵省や内務省などの主要官庁の建物がそれに代わった。戦後は土地が民間に払い下げられ、三井生命、三井物産などの大手一流企業のビルが建ち並ぶようになり、今に至る。
 そんな変遷をよそに、この一等地の一角に、千古の昔から不動を保ってきた、とある〝スポット〟が盤踞(ばんきょ)している。一見するとビル街の小公園のように映るかもしれないその場所は、平安時代中期、朝廷に対して反乱を起こすも誅(ちゅう)された、平将門の首が埋められたと伝えられる地──すなわち、「将門塚(首塚)」である。

 将門塚は、近代、江戸時代はもちろん、さかのぼって江戸に徳川家康が入府する以前から、さらには、室町時代に太田道灌(おおたどうかん)によって最初の江戸城が築かれるよりもはるか以前から、この場所にしかと存在し、江戸と東京の歴史を見つめつづけていた。
 江戸の総鎮守(そうちんじゅ)といわれる神田明神(現在の正式名は神田神社)も、もとはといえばこの将門塚のすぐそばに鎮座し、首塚の鎮魂という役目を担っていたのである。
 大正時代の関東大震災時や昭和敗戦直後の混乱期には、消失の危機にさらされたこともあったが、首塚はその度に祀りなおされ、守られつづけてきた。

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関東大震災直後の将門塚。右手の墳丘の上にみえるのは明治39年(1906)建立の保存碑。鳥居龍蔵『上代の東京と其その周囲』(1927年)より。

 それはなぜか。
 首塚に手を掛けようとすると、不思議と怪異事件が頻発し、それが将門の怨霊の祟によるものと信じられていたからである。
 たとえば、昭和の終戦後まもなくGHQは将軍塚がある一帯を整地してモータープールにしようとしたが、その工事中にブルドーザーが横転し、日本人の運転手が投げ出されて病院で死亡。他にも事故が続いた。たちまち将門の祟りが噂され、GHQはやむを得ず将軍塚の保存を認めたのだ。
 昭和30年代のモータープール撤収後、塚の東隣には日本長期信用銀行のビルが建てられた。ところが、塚に面した各階の部屋の行員が次々に発病したため、神田明神の神職が呼ばれて盛大なお祓いが行われた、という椿事(ちんじ)もあった。
 大都会の一等地ながら、将門塚が21世紀の現代になっても再開発をまぬかれ、無言ながら異様な存在感を示しているのは、このこと──将門霊の恐るべき祟り──が理由にほかならない。

大改修が行われた令和の将門塚

 その首塚に、近年、きわめて大きな変化が生じた。昨年(2020年)11月から、「史蹟将門塚保存会」の管理のもと、全面的な改修工事が行われたのである。
 予定通り、工事は今年4月に完了し、4月26日には竣工式典が行われ、リニューアルされた将門塚が姿をあらわした。
 敷地を囲っていた塀は取り払われてしまったが、代わりに木材を使った瀟洒な玉垣ができ、参道口は大きく広げられ、真新しい敷石や砂利が冴々と白く映える。そして以前と同じように敷地内の東側に基壇があり(これも新調された)、その上に、塚のメルクマールである将門の法号(ほうごう)「蓮阿弥陀仏(れんあみだぶつ」を刻した板碑と古い石灯籠がましましている。
 全体に開放感があり、高層ビル群のただなかにあっても、のびやかで清冽な気を参拝者に与えてくれる。
 新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るうなか、かつて「朝敵」とののしられた将門の首塚が大改修を施され、再興されたことは、いったいどんな意義をもつのだろうか。しかもこの改修にあたっては、塚に対してある〝秘儀〟が行われたという。

──その秘儀とははたして何か?
 魔都・東京に君臨しつづける将門塚に秘められた驚愕の真実に迫る‼

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