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エクトプラズムで幽霊を実体化! 驚異の霊能者・亀井三郎/藤巻一保

かつて日本には、現界と神仙界を往来し、数々の軌跡を起こした「神人」たちがいた。念写の三田光一と双璧をなす超常能力を持ち、「人間界で起こった奇跡7、8割は起こすことができる」と日本心霊科学の父・浅野和三郎にいわしめた人物が、亀井三郎である。
亀井の謎に包まれた経歴とその超常能力に迫る。

文=不二龍彦

生涯を偽名で通した謎の男

 三田光一と双璧をなす超常能力を持ちながら、自分に関する情報のほぼすべてを隠したまま、〝仮名さん〟のモジリと思われる偽名で生涯を通した謎の男、それが亀井三郎だ。

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物理霊媒では、稀有な能力者としてその存在感をいかんなく発揮した亀井三郎。

 彼が世間に登場したのは昭和4年。日本心霊科学協会を立ちあげ、日本と欧米をまたにかけて精力的に活動していた浅野和三郎に物理的心霊現象を披露して驚嘆させ、たちまち斯界のスターにのしあがった。
「人間界に起こった奇跡のほとんど7、8割までは、この人ひとりで立派にできる」と浅野にいわしめた亀井は、当時「年齢は27、28、でっぷり小太りの風采の卑しからぬ一青年」で、「本来文筆の人」だと浅野は書いている(「関西心霊行脚」)。
 以前ムー本誌に「神人亀井三郎の謎」(「ムー」2006年11月号)を書いた時点で、筆者は「文筆の人」という部分に疑問を抱いていた。けれどもその後、心霊研究団体「菊花会」の機関誌(『心霊知識』1号・昭和6年)に亀井が寄せた「バヴァリア街に遺されたる怪青年の謎の事件」を読む機会を得て、なるほどと合点がいった。
 この記事は、16歳まで地下牢に幽閉されて育った謎の少年カスパー・ハウザーの暗殺事件を扱ったものだ。昭和52年にフォイエルバッハの『カスパ
ー・ハウザーの謎 地下牢の17年』が邦訳されて一般に知られるようになった事件だが、亀井が寄稿した昭和6年当時は、まったく知られていない怪奇実話だ。亀井はこう書いている。
「此の原書は、十年前アメリカに行っている筆者(亀井)の友人から贈られた猟奇的な物語で、贈られた当時か興味を以て時折り引出しては見ている
のであるが、未だに飽かない」
 記事の前段では、コナン・ドイルが発行したパンフレット『オスカー・スレーター事件』について言及しており、当時の亀井青年の興味がどこに向いていたのかを窺うことができる。亀井三郎の名で発表された記事は、管見ではこの一篇のみだが、文章はなるほどしっかりしており、英文の原書を読む語学力があったことも知れるので、浅野が「本来文筆の人」といったのは、あながち見当外れの紹介ではなかったと得心がいった。

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昭和6年に創刊され、翌7年に資金難などから休刊となった菊花会機関誌の『心霊知識』。菊花会会員には医学博士、文学博士、芸術家など多彩な顔ぶれのほか、笹目秀和(恒雄)、出口日出麿、芹沢光治良、岡田建文など著名な宗教家・心霊研究家が名を連ねていた。

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『心霊知識』創刊号(昭和6年5月号)に寄せられた亀井の記事「バヴァリア街に遺されたる怪青年の謎の事件」。

自分流を貫いた異色の「霊的巨人」

 その亀井が、いかなる理由で霊媒をなりわいとしはじめたのか。そのあたりの事情はいっさい不明だが、小遣い稼ぎが大きな理由だったと思う。
 大正デモクラシーの空気の中で育った青年時代の亀井には、昭和初期から顕著になってくる硬直した天皇絶対主義とは無縁の自由さがあり、「ダンスの上手なパリパリの近代的プレイボーイ」という評判まであった。他方、文学青年らしい無頼の一面や、すね者的な韜晦癖の持ち主でもあった。
 モゴールおよび坂本紅蓮洞(ぐれんどう)という名の背後霊が憑いて守護や指導にあたっていたが、かつがれて教祖におさまるようなタイプではなく、自分の思うがまま〝個人〟として生きていくという流儀を貫き、その生きざまは背後霊である紅蓮洞の生きざまと非常によく似た部分があった。亀井の背後霊は、今回の記事のテーマと深く関わるので、やや詳しく書いていく。

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