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「Why」を問うことが必ずしも正しいとは限らないのかも

はじめに

むぎの部屋へようこそ。
ここでは私自身の過去、
日々の生活から得た学びを
お届けしています。
何か一つでも
持って帰ってもらえたら嬉しいです。

物事を深く理解しようとするときに
「なぜ」
英語なら「Why」
という思考は非常に大切です。

しかし何でもかんでも「なぜ」に
囚われるのもまた違うよな
と思うこともあり。

今日はそんな「なぜ」という思考について
いろいろ考えたことを整理しつつ
書いてみたいと思います。

「Why」が必ず存在するとは限らない

よく何か問題を起こした時に

「なんで」こんなことしたの?

と問い詰められる光景が浮かぶと思います。

どうでしょうか。

こういう時って案外
これといった理由はないことありませんか?

ただ「なぜ」と聞かれたから
その質問に「答えるために」
とりあえずそれらしい「理由」
を繕って答える

特に子供のいたずらなんて
そんなものでしょう。

仕事のミスなんて大半は
知識不足、注意欠陥、といったところで

「このデータ差し替えてみたら
面白そうだったのでやりました!」

なんて狂った動機でやる人なんて
基本いないわけで。

動機なんてあってないようなものです。

そして何が面白いって
ここでどんな理由を言おうが
その後のお説教コースは不可避なんですよね。

その既定路線に乗っているとわかっていながら
とりあえずそれ以上その人の気を
逆撫でしないように
無難な回答を考える

このプロセスってなんなんですかね?

というような内容はかなり初期の頃に
「説教ほど無駄なものはない」
という記事で書いていたので
よかったら覗いてみてくださいね。

この時間を経て何か前に進むのか。
そんなことはなくて
ただ説教している側が
支配感によって気持ちよくなる
時間が生まれているだけなんですよね。

「あなたのためを思って」

とかいうセリフもよく聞きますが、
そんなわけあるかいなと。

少なくともその無駄な時間で
不愉快にされている時点で
何のためになっていないんですよね。

「Why」より先に「〇〇」を考える必要があるのでは

そうやって「Why」を問いただすことに
夢中になってしまい、
肝心の問題解決が疎かになってしまう
なんてこともありますよね。

実際起きて過ぎてしまったことに対して
「なぜ」を問うよりまずは
今起きている事象に対して
「何」をする必要があるのか。

「What」を考える必要がありませんかね。

その「What」を遂行するにあたって
必要な材料として「Why」が
必要なら問う。
という順序も考えられるのでは。

「Why」がわかっていた上で
起きた問題なのであれば
防げたかもしれない。

ではそれは「なぜ」起きたのか
よりも
「何を」すれば防げたのか
そういう次に繋げるための
考えを持つことも必要そうですよね。

そもそも「What」がわからないと
「Why」がわからないことだって
あります。

「わかってたら苦労しねーよ」
というやつですね。

少しややこしくなってきて
私も混乱しかけていますが、
少なくとも
「Why」にばかり固執しすぎて
解決すべき問題が宙ぶらりんに
なっているようであれば
それはいただけないなと
思いますよね。

おわりに

私のようにシステムに関わる会社だと
トラブルは起きないように
最善を尽くしていても
起きてしまうことはあります。

有事には
当然原因調査を行いますが
まず優先すべきは
「止まってしまったシステムを復旧すること」
ですよね。

精密な原因調査はほんの片手間程度で
終わることの方が少ないです。

だからこれ以上の不便をかけないように
いったん動く状態まで全速力で復旧し、
その後時間をかけて綿密な調査を行い
原因を特定し、
再発防止のための改善をする

という段取りになります。

いずれにしても
すぎてしまった過去に囚われすぎて
先に進めることを考えずにいるのは
あまりにも本筋とずれている気が。

「Why」はあくまでも原因究明。
あくまでも「What」のための理由づけ
というのが1番ストンと落ちる考え方なのかな
と思います。

かなりややこしい話題だったので
私の中でも100%考えが
まとまりきっているわけでは
ありません。

よかったらコメントで
ご意見いただけたら嬉しいです。

最後までご覧いただき
ありがとうございました。
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持って帰ってくださいね。

いってらっしゃい。

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