説教ほど無駄なものはない
はじめに
おはようございます。
むぎです。
皆さんは親や先生、上司などいわゆる目上の方からお説教を受けたことはありますか?
ない、という人でも周りで現場を目撃したことはあるんじゃないかと思います。
タイトルからお察しいただける通り、私はあの「お説教」という行為を受けているのも見ているのも大っ嫌いなんですね。
もし、自分がお説教をしたことがある、という方にこそ見てもらいたい内容なのかもしれません。
今回、少し感情が入り汚い言葉が出てしまっていることもありますのでご容赦ください。
ただ、それだけ感情を込めて伝えたいメッセージでもあります。
よかったら最後までお付き合いください。
そもそも説教の定義って
まず、そもそもの説教の定義を確認してみましょう。
どうですか?
自分のイメージした通りという方もいれば少し違和感を覚えた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
私は完全に後者でした。
特に2の方ですが、
「教え導くために言い聞かせること」
これ、言い聞かせるというところだけ見ればそう見えなくもないのですが、本当に教え導く気があるのか疑問を感じる場面に遭遇したことはないですか?
感情的になり絶え間なく暴言を浴びせ続けているタイプのあれですね。
これの何が問題なのか、次の章で考えてみます。
感情的になる前にやることがある
感情的になってただただ怒鳴り散らかすだけの人の心理は当事者ではないしなるつもりもないので一生理解できることはないのでしょうが、おそらく
「相手を支配したい、従わせたい」
という思いが強いのではないかと思います。
そもそも説教は受ける側が何か間違いを起こしてそれを正すという目的で始まるものだとして、ここで話しているような説教をしている場合、
「間違いを正す」
という本来の目的がどこかにいってしまっているケースがほとんどな気がするんですよね。
自分が小学生くらいの頃はまだ体も小さかったので体の大きな大人から大きな声で怒鳴り散らかされているその事実に対してただ恐怖があっただけなんですよね。
しかし中学生ともなるとこの説教という行為に対して、上記のような違和感を感じ始め、論点がずれていることや内容の矛盾に気づき指摘しようものなら相手はさらにヒートアップしてより強い言葉で屈服させようとしてきます。
これは説教なのでしょうか?
手を出していないだけでただの暴力ですよね?
この頃から私はこういった説教をする大人を冷ややかな目で見るようになり、反論して逆上されるのも面倒なのでそれっぽく俯いてやりすごしていました。
何か間違いを正すという目的であれば、怒鳴り散らかされるより淡々と諭される方が聞く側はよっぽど心に響くでしょう。
と、口で言うのは簡単ですが、実際にそれを頭で理解して実践できる人がどれだけいるのか。
これができる人は自分の怒りという感情をコントロールすることができていて、なおかつ冷静に状況を整理し改善に向かって議論を進めることができている、いわゆる優秀な人なんですよね。
私がこれまで出会ってきた中でこの人すごいなと思った人は割と例外なくこのタイプだったと記憶しています。
自分もこんな大人になりたいなと心から思えるような人たちでした。
そういう人たちの存在を知れば知るほど、これまでお話ししてきたような感情を爆発させるだけの理性のかけらもないような人たちのことは尊敬しようとも思いませんし、できれば関わりたくないですよね。
おわりに
感情的になって大きな声で怒鳴り散らかされていると当事者は言うまでもなく、周りでそれを聞いている人もはっきり言って不愉快ですし迷惑でしかないんですよね。
そんなことにも気づけないくらい周りが見えなくなってしまう大人にはなりたくはないですね。
もしこれまでにやってしまったことがあってぎくっとした人もいるかも知れませんが、安心してください。
少しでも自分がやっていたことがまずいことだったと気がつけただけでも大きな一歩です。
やってしまった過去は変えられませんから、これから同じ過ちを起こさないようにできれば十分です。
今回の内容が誰かにとって気づきとなることができれば幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
また次の記事でお会いしましょう。
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