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新幹線アダルトビデオ狂想曲

 凍てつくような風が真っ赤に燃える紅葉を揺らしている十一月のある日、一台の新幹線が東京駅を出発して西へと向かっていた。来るべき週末をどこか東京から離れた場所でのんびりと過ごそうと、老若男女がその新幹線に殺到していた。自由席には隙間を開けずにびっしりと人が詰め込まれ、多くの人は席と席の間で二時間以上も立たなければならなかった。不安定なキャリーケースに腰を落ち着けて読書をする男、しゃがみこんで延々とSNSを眺める女子高生、誰かが席を譲ってくれるのを期待してあたりをキョロキョロと見渡している老夫婦、昼間から缶ビールを飲んでスポーツ新聞を広げている中年の男、騒がしい子供を悲壮な顔でなだめる女など、車内は雑多な人の思いが錯綜し、これから起こるある破局を予感させるように、騒々しい雰囲気がその密室を覆っていた。読者諸君に断っておきたいのだが、私はこのあさましい、きわめて低俗な事件を人づてに聞いたのであり、事実関係が不明瞭なところも多くあるし、ところどころ私の想像も入っている。ただいくつかの部分においては、その事実を裏付ける明白な証拠もあるし、少ない人数ではあるが当事者の証言も聞いている。しかしその両者を明快に区別する必要もあるまい。私が確信しているのは、このきわめて日本的な一事件が、日本の各地において幾度となく繰り返されてきたこと、そしてこの問題について語ることはきわめて意義深いということである。前置きはこれくらいにして、私はこの奇妙な事件について語ることにしよう。
 ある席の窓際に、一人の青年がヘッドホンをしてじっとスマホの画面を凝視していた。彼は財津慎太郎という京都の大学生で、ロシア文学を専攻していた。親戚の不幸があり、実家のある東京に帰ってきていた彼は、明日の講義のためにこの新幹線に乗っていたのだ。彼は席が埋まるであろうことを予期し、発車時間の数十分前からホームで列に並んでいた。リュックサックは読みかけの文庫本でずっしりと重く、煙草と缶コーヒーの匂いが染み付いていた。その隣には幼稚園に入ったばかりの女の子を膝の上に乗せた、小綺麗な格好をした婦人が座っていた。彼女は不機嫌そうに顔を歪め、隣人の肩を叩くと娘に聞こえないように押し殺した声で言った。
「それを見るのをやめてください。娘が起きたらどうするんですか」
慎太郎はゆっくりとヘッドホンを外し、婦人に向き合うと怪訝そうに首を傾けた。
「すいません、よく聞こえなかったもので。えっと、何か問題がありましたか?」
「それを見ないでくださいと言っているんです。その、そういった類の動画を」
「はて、そういった類とはどういうものでしょう」慎太郎はスマホの画面をひっくり返し、婦人には見えないようにして言った。
「私が言わなくてもあなたはご存知でしょう。だってずっと同じような動画ばかりを見ておられるのだから」婦人は怒りに震え、肩を小刻みに揺らしていた。眉は釣り上がり、今にも大声を上げんばかりの迫力であった。
「どうもわかりかねますな。具体的に指摘してください。私は様々な種類の動画を見ているつもりでしたから」彼はニヤリと笑うと、ペットボトルの緑茶をごくごくと飲んだ。
「女が裸で、そう、まさにスッポンポンでのたうちまわっている類の動画ですよ。それにあなたのヘッドホンはあまり質がよろしくないようでありませんか。その、なんと言っていいのか、女の甲高い声が私の耳にまで届いているのです。これは娘の教育にもきわめて悪い影響を及ぼすでしょう。もし娘が起きてこの声を聞いたらどう思うか考えてもご覧なさい。公共の場所でこのような動画をご覧になるなんて、あなたの倫理観はどうなっているのか、私にはさっぱりわかりかねます」婦人は怒りを押し殺し、小さな声でゆっくりと諭すように言った。
「なるほど。わかりました。では音の小さな、つまり喘ぎ声のないものでも見ることにいたしましょう。今ではそういった類のアダルトビデオも多いのですよ。私は何作もそのような作品を購入しております。いや、素晴らしいものですな、技術の進歩というものは!確かにこんな狭くて暑苦しい密室の中でうるさいのはあまりふさわしくありませんな」
「私は喘ぎ声の話をしているのではありません!」彼女は怒りのこもった、あたりに響き渡る凛とした声で言った。乗客の何人かが振り返り彼女を見つめた。
「起きてしまいますよ。お子さんが」慎太郎は不敵な笑みを浮かべて言った。婦人は怒りと恥ずかしさのあまり小刻みに震えていた。
「失礼いたしました。大きな声をあげてしまって。ですが、私は断固として主張します。新幹線の中で、まあ新幹線の中でと限定する必要もありませんね、そういった類のビデオを見ることは全くもって罪深いことです。日本において、かくなる動画がいともたやすく入手できる状況に憂いを感じております。あなたにもご両親がいらっしゃるのでしょう?あなたのこんな情けない、欲にまみれた姿を見たらさぞ悲しむでしょう。私はあなたより年配のものとして、いわば親になったような気持ちであなたに言っているのですよ。お分かりですか?」婦人は言葉を重ねることで平静を取り戻そうとしているようだった。膝の上では娘がすやすやと安らかな寝息を立てて眠っていた。
「アダルトビデオを軽蔑なさっているのですか」前の席から若い女が顔を乗り出して二人の会話に押し入ってきた。茶色のニット帽を目深にかぶり、首筋には十字架のネックレスが覗いていた。彼女はきわめて冷静に、論理的に言葉を一つ一つ選びながら言った。
「確かにこの青年が公衆の面前でアダルトビデオを見ているのは軽蔑されて然るべきかもしれません。しかしあなたの口ぶりには、退廃的で享楽的なものは断罪されて然るべきという、きわめて通俗的な倫理観が透けて見えるように思えます。しかし私の考えからすると、そうやって目に障るものを全て取り除いてしまおうという高邁な考えは、道徳的という言葉の皮を被った生命への侮辱であるように思えます」
「私はそのようなことを言っているのではありません。ただ、娘の教育に悪影響が…」婦人は急に弱気になった様子で、か細い声を絞り出すように言った。その時、通路をまたいで反対側の席に座る、灰色のスーツをだらしなく着込んでぶつぶつと独り言を言っていた五十歳ばかりの男が、急に声を荒らげて会話に横入りしてきた。
「いえご婦人、あなたの言っておられることは全く間違っておりませんぞ!」男は缶ビールを飲み干し、簡易机に叩きつけると目をギラギラと輝かせて言った。
「日本は退廃しておるのです。あまりに情けのない有様です。若者は刹那的な快楽のために人生を棒にふり、年配のものに対する尊敬の念もありません。これはおしなべて世代の問題です。我々はきちんと道徳的に教育されてきました。人の迷惑になることはしてはならないと大人たちから教わってきた世代です。きちんと襟を正して真面目に慎ましく生きることが美徳なのです。それが人間の正しいあり方なのです。それなのに最近の若者たちといったら、目の前のこと、自分のことしか考えず、社会の秩序を壊してまわっているのです。まったく、日本の将来が危ぶまれますよ。正しいとは、道徳的とは何であるのかまったくわかっていないのです!」男は早口でまくし立てるように言った。額からは汗がにじみ、呼吸はあがっていた。彼は通路に身を乗り出して婦人に話しかけた。
「あなたのような人がいてくれて嬉しいです。私は本当に日本の将来を憂いていたのですから。どうです?今度ゆっくりお話しでもしませんか?あ、申し遅れました、私はこういうものです」男はスーツの内ポケットから革の剥げた名刺入れを取り出し、その中から一番綺麗な名刺を取り出して婦人に渡した。婦人は内心面倒だと考えたが、その気持ちを推し量られないよう笑顔を取り繕って名刺を受け取った。男は木下一郎といい、とある食品加工メーカーで課長補佐をやっているようだった。
「しかしかわいらしいお子さんですな」木下はすやすやと寝息を立てている娘の頭を撫でた。子供が不快そうに顔を歪めたのに彼は気がつかなかった。
「私も女の子が欲しいものでしたが、あいにく子供に恵まれませんで。まあ、子供というより、相手に恵まれなかったというのが本当のところなんですがね」木下は鼻を鳴らして大きく笑った。すると予期できたことではあったのだが、彼にとってはきわめて予想外の出来事が起こった。子供が泣き出したのである。
「え、あ、すみません。私が泣かしてしまったのかな。起こしてしまったのかな」木下はうろたえ、周囲をキョロキョロと見回した。その視界の先に、冷ややかな目をした慎太郎の姿があった。木下はひどく憤慨して大きな声で怒鳴った。
「なんだその顔は!お前みたいな若者が、社会に貢献することもなくだらだらと過ごしているから日本という国はダメになっているのだぞ!お前にはその自覚がないのか!どうだ、子供をあやしてみろ。泣き止ませるんだ。この、耳障りな子供の泣き声を!」
「あなたが泣かせたんですよ。あなたが」慎太郎は顔色をまったく変えずにそう言うと、小さな声で婦人に話しかけた。
「どこか遠くの席にお移りなさい。この席は騒がしくていけない。ええ、私が話して席を一つ空けてもらいますよ。友人が近くに座っているんです」慎太郎は立ち上がり、車両の前の方に姿を消した。
 さてこの段になって、私はこの小さな教訓話の登場人物を整理する必要があるだろう。それは多分に便宜的なものであるが、読者諸君にこの物語を理解してもらうために、少なからず必要不可欠なことであるよう思われるからだ。
 アダルトビデオを凝視していた青年については既にささやかながら触れておいたし、あの憎らしい、臭いたつような中年の男に対しても彼の差し出した名刺が十分に彼の属性ないし社会的な立場を明確にしているだろうから、彼らについて私が付け加える必要はない。補足的な説明を付け加える必要があると私が考えるのは、子供を抱いた婦人と、彼女に一言をくわえたあの若い女性である。
 婦人は名前を備前聡子と言い、京都の実家にひとり娘を連れて帰る最中であった。彼女は東京で証券会社に勤める夫とともに三人で暮らしていたのだが、些細なことから夫の不貞が明らかになると、彼に何かやり返そうと、何か衝撃を与えようと、彼が仕事に出かけた後に家を飛び出したのであった。聡子は置き手紙をリビングの食卓に置いて、部屋の電気を全て付けたまま京都へと旅立ったのだ。とはいえそのような家庭内の事情は、この事件に対して間接的な意味を持っていようとも、直接に関係があるわけではない。しかしながら私が推察するに、その不安定な心の揺らぎが、慎太郎の行動に対して苛立ち、何か一言言わなければならないと決意させる理由の一つになったのだろう。ともかく彼女はそのような事情から、昼過ぎに出発する新幹線に乗って西へと向かっていたのだ。
 反対に若い女性は京都に居を構え、東京には仕事の関係で数日滞在したに過ぎなかった。彼女は草川凛という、小さな雑貨店を経営する女性であった。高校を卒業後渡米、大学で映画を学んだのち帰国し、映画のシナリオを書く傍ら、当地で知り合った人脈を駆使して、日本ではあまり馴染みのない雑貨を輸入して販売していた。わずか十畳ほどの狭い店ではあったが、その雑貨はSNSを通して話題になり、寺町通りの一角でかなり繁盛していた。私もその店を訪れたことがあるのだが、世評の通り良質の雑貨がセンス良く並んだ店内は居心地が良く、ついつい予定よりも多く買ってしまった。その際に彼女と話ができなかったことを、私は今に至るまで後悔している。しかしながら、雑貨店の話をし続けても意味があるまい。そろそろ話を新幹線の車内に戻すことにしよう。
 慎太郎が席を立ってしばらくすると、先ほどまでの泣き声が嘘のように子供はすやすやと眠ってしまった。草川凛はしばらく彼女の様子を心配そうに眺めていたが、安らかな寝息を確認すると安心したように席につき、分厚い文庫本を読み始めた。聡子は呆然とした様子で前だけを凝視し、横から木下が自分を見つめていることに気がついていないふりをしていた。
「しかし、アダルトビデオなんてものが世間に広がっているとは、私はどうしても納得がいきませんなあ」木下は独り言のようにそう言ったが、聡子に何か返答を期待しているのは明らかだった。
「いやあ、退廃ですよ。我が国であれほどまでに神聖視されてきた、あの慎みの美徳はどこへ消えてしまったのか。せめてモザイクくらいは付けて欲しいものですな。ねえ、そう思うでしょう?」木下は聡子の肩を叩いて言った。
すると前の席から凛が再び身を乗り出して、木下のしたり顔を凝視して言った。
「あなたのおっしゃっていることが、どうも私にはよくわかりません。あなたの倫理観はモザイクがかかっていれば全てのアダルトビデオを許すことになるのですか?」
「いや、そういうことを言っているわけではありません。私が強く言いたいことは、そんな表面上の加工の話ではなく精神的なもの、つまり愛と性の関係ですな。それについてあなたがたのような若い連中は、何か大きな思い違いをしている、ということを言いたいのです」
「ですがあなたのおっしゃっていることは、きわめて表面的な細部の話ではありませんか。せめてモザイク、と言ってしまえば、モザイクのかかっていないアダルトビデオを承認することになりませんか」
「確かにそう聞こえたのなら謝罪します。私の言葉が足りなかったようですね。いやあ、こんなことはしばしば起こるものなんですよ!私はあまりうまく喋れないようでねえ、自分の伝えたいことの一割も聞き手に届いていないようなんです」
「私の周りでアダルトビデオの話をするのはやめていただけますか」聡子は落ち着き払った声で言った。
「いやあ、失敬。確かにこんな汚らしい話など、ご婦人の前でするべきではありませんね」木下は額の汗をハンカチで拭いながら言った。
「ですが、私はあなたたちに同意しかねます。このままだと何か馬鹿にされているような気がいたしますので」凛はゆったりとした口調で言った。
「誤解?何かおかしなことを言いましたかね」木下は目を見開き、凛の顔を凝視して言った。
「モザイクだの喘ぎ声だの、そんなものの有無は重要ではありません!」聡子は二人の顔を交互に見て言った。
「アダルトビデオなぞ、この世から根絶してしまえばいいのです。そんな汚らしいものがはびこる世界に、娘をそんな世界に連れて行くわけにはいかないのです!ねえ、木下さん。あなたも日本人らしい心を持っているなら、アダルトビデオなんかこの世界から、せめて日本からでも無くなってしまえばいいとお思いですよね」聡子は木下の目をじっと見つめて言った。木下はハンカチで口を拭いた。
「まあ、無くしてしまう、完全に無くしてしまうってのは乱暴すぎるかもしれませんがね。アダルトビデオに人生の喜びを見出している人もいるくらいですし。まあ、何か規制のようなものは必要でしょうが…」
「あら、随分と言葉に詰まっていらっしゃるわね。何か心配なことでもあるのかしら」
「そもそも、アダルトビデオは汚いものではないですよ」凛が口を挟んだ。
「何を言っているの?あれはどう見ても汚いでしょう、汚らわしい。私はね、アダルトビデオが日本を堕落させた一番の要因じゃないかと睨んでおりますの」
「まあまあ、ご婦人方。この議論はこれくらいにしておいて、ねえ、ほら見てください。立派な富士ですよ!」木下は彼女たちの側の窓を指差して言った。青い空を背景に立派な富士山が窓いっぱいに広がっていた。
「まあ立派な富士山だこと!」聡子は口元を手で覆い隠しながら言った。
「綺麗ですね」凛が聡子に話しかけた。
「本当に綺麗なものというのは、青空に映える富士だとか、道端を埋め尽くす満開の桜だとか、モナリザの微笑だとか、そういったものを言うんですよ。あなたはまだ若いから美というものをよくわかっていないようだけど、まあ仕方ありませんね、そういうのは人生経験がないとわかるものじゃありませんから」
「アダルトビデオと富士山の、どこが違っているのでしょうか」凛は不思議そうに首を傾げて言った。
「そんなのは明白じゃありませんか!明らかな優劣がありますよ。もう言葉にできないくらいの差がね!まあ、あなたはあまり(こういう言い方は良くないと思うけれど)美的感覚が優れていないようですから、もしかするとお分かりにならないかもしれませんけど、しかし私の目にはわかります!それが全てなんです。絶対的な真実なんですよ。勉強なさってくださいね」
「まあ、アダルトビデオも捨てたもんじゃないですがね」木下がニヤニヤと笑いながら、独り言のように言った。
「あなたは肯定なさるんですか?アダルトビデオを?え?」
「いやあ、肯定というんじゃありませんがね、まあ存在しているものは存在しているのだから、そのまま受け入れましょうと、そういうスタンスなんですね」
「でもなくしてしまわなければならないものもあるでしょう?」
「確かにゴキブリだとか、拷問だとかはこの世界から無くさなければなりません。でも、アダルトビデオは少なからず、誰かに必要とされているんです。あ、私じゃあありませんよ。誤解しないでください」
「でもゴキブリがいなくなったら、ゴキブリ駆除の殺虫剤を作っている会社は倒産しますよ」凛はぼうっと天井を眺めながら言った。
「必要な犠牲というものはあるんですよ」木下はゆっくりと言葉をかみしめるように言った。
「必要なんて、誰が決めるのかしら」聡子は子供をあやしながら呟いた。
「そう、それが問題なんです。だって私たちには神様がいないでしょう?少なくとも意識的には。だから、各々の基準が、みんなてんでばらばらなんです。誰かの不必要は、誰かの必要なんですよ」凛は初めて語気を荒げて言った。
三人は沈黙した。新幹線がトンネルに入り、車輪の音が喧しく響いた。慎太郎が席に戻ってきた。
「さあ、御婦人、席をご用意しました。あれ、静まりかえってますね。これじゃあ席を変える必要もなさそうだ」慎太郎はそう言って席についた。
 この話にはまだ続きもあるのだが、今日はこのあたりで終わりにしよう。事件と呼ぶにはあまりに些細すぎる物語だが、彼らの熱狂は凄まじいものであった。その熱さを、読者諸君は感じ取ることができれば、私はとても嬉しい。

喉から手が出ちゃう