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【エッセイ】「自己責任論」と「努力」のゆくえ

◆「勝ち組」「負け組」と「自己責任論」

 「自己責任」という言葉が流行ったのは2000年代だったか。当時、小泉政権の長期化で就職氷河期が一段落した時代だったと記憶している。正社員雇用で働く人々が「努力が足りない」「能力が低い」といった言葉で非正規雇用で働く人々を揶揄し、社会が「勝ち組」「負け組」に分断された時代だ。

 あの頃の「若者」は正社員と非正規で二極化していて、正社員になれたのは「努力したから」で、非正規雇用で「ネットカフェ難民」になったのは「努力・能力不足」だから自己責任だ、という論調が強かった。


◆「努力」とはなんだろう

 当時僕はこの「努力」「能力」という言葉に違和感を覚えることがしばしばあった。

 一体何の努力なのだろう。どういった「努力」が、どういった「能力」が足りないのだろう。

 そもそも、正社員の募集が極端に少なかった時代である。大卒でも三分の一は正社員になれなかった。多くの若者が不本意にも非正規雇用で働き、のり口をしのいでいた。

 確かに、少ない「正社員のイス」を獲得するために「努力」した者は素晴らしい。けれども、同じだけ努力したものがみんな正社員になれるわけではない、という「時代」だった。そのほんの少し前、それこそ4~5年前に「生まれて」いたら何の問題もなく全員が正社員になれていたのだ。生まれる時代を選ぶ努力、なんてものがあるのだろうか。

◆この手の議論が「消し飛んだ」瞬間

 実は、こういった議論はある年の3月11日をきっかけに、ぱったり姿を消すことになる。そう、東日本大震災だ。日本中が「それどころではない」状態になってしまったあのいたましい出来事……あの日を境に、自己責任論は全くと言っていいほど聞かなくなった。

 もしかしたら……「努力」ではどうにもできないことがある、という「現実」が全員の目の前に現出したから、なのかもしれないと僕は感じている。

(2021年11月 日南本倶生(ひなもとともき))

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『13歳から分かる!プロフェッショナルの条件』
(監修:藤屋伸二 イラスト:大西洋)


……とまぁここまではいつもどおり貼り付けで掲載したのですが、合評会で「もっと自分自身のエピソードを」とアドバイスいただいたので、書き直し版をまたアップするつもりです。そちらもお楽しみに…。

追記:結局修正版を作ることなく、次のエッセイで今回の課題を盛り込むことにしました。今回のも「これはこれで好き」という自分大好き人間ことみゅんひはうぜん的な判断です(笑)。

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「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)