【25日目】完成!オカネの『トリセツ』(オカネのトリセツ)
◆オカネとの「向き合い方」
『オカネのトリセツ』も今回で最終回です。
さて、今回までの話をまとめるとこうなります。
・オカネとは「価値を可視化する試み」である
・価値とココロには同じ性質がある
1、目に見えない
2、触ることもできない
3、でも確かに『ある』
・オカネは「価値」を可視化する試みだが『モトの話』はココロを可視化する試み
・オカネよりモトのほうが「古くからある」
・オカネはモトの仕組みの「劣化コピー」である
・僕たちが本当に求めているのは、オカネそのものではなく「価値」である
こうやって今までの話をまとめてみると、モトの部分以外は
「そういえば当たり前だよな」
という話ばかりだったはずです。
特に、僕らはオカネを集めると幸せになれる気がついついしてしまうものですが、『オカネを集めて幸せになる』のには「限度がある」という話も、そりゃそうだよな、という話だと思うんです。
考えてみると、僕たちが「幸せ」を感じるのはどういうときかというと、
・満足している
・安心している
・嬉しい出来事に感激している
・好きなものや生き物(人間含む)と触れ合っている
・苦しみから開放される
こういうようなときだと思うんです。
で、これをよく見てほしいんですけど……僕が今まで話してきた『モト』で考えると、もれなくこれは
「ココロが『モト』でいっぱいになっている」
ときなんですよね。
だからなんです。
入門編のいっちばん最初で書いたとおり、僕たちが幸せに生きるための具体的な方法というのは、たった一つしかないんです。すなわち
『ココロにモトをいっぱい集める』
これだけなんです。そのための「便利な手段」として、オカネというものを扱っていけばいいわけです。
◆僕たちは「オカネを集めても幸せになれない」のか
ここから「オカネがいっぱいあっても、幸せになれるとは限らない」という一般論に対する対応策が、具体的に導き出されます。
どういうことかというと…
オカネをある程度いっぱい集めるのは、カラダを満足させ、好きな人や周囲を満足させ、それで「モトあつめ」ができるから、理にかなっています。
ですがそれでも「幸せが足りない」と思ったら、
『モトを直接集める』
という方法を取ればいい、ということになります。これが結論です。
◆オカネもモトも集めよう!!
繰り返しになりますが、モトを集める方法は「二つ」あります。
一つは、モトが「注目したほうへ流れる」という性質を利用して、他者に注目されることで「奪う」やり方。これが【一番目のモトあつめ】です。
方法は何でもいいんです。気さえ引ければモトが入ってきます。肩をたたいて振り向かせるだけでもいいんです。大声で怒鳴ったり殴ったりしてもいいし、オカネやモノを押し付けてもいい。このとき相手がちょっとでも「ネガティブな気持ち」(イライラ感や恐怖)になったら、モトを奪えています。
もう一つは「ココロが勝手に生み出す」という性質を利用して、「自分で増やす」というやり方。これが【二番目のモトあつめ】です。
【二番目のモトあつめ】には高度な「アタマの働き」が必要で、他人とうまく付き合う、自分の好きなものと上手に触れ合う、などで「ココロが満足する・安心する・震える」と、ココロがジェネレーターになって【モト(素粒子)】を空間に生み出して増やす、というやり方でしたね(なぜ「空間に生まれる」のかはエキスパート編まで待って下さい。時空論なんです)。
一番目が「悪い」わけではありません。やり方の問題です。一番目を上手に使うことで、二番目が始まることもあるんでしたね(初級編『カンジョウのトリセツ』もぜひ読んでください)。
というわけで、オカネに困るのはツライことですが(筆者がたった今、経験し続けていることでもあるのですが)、オカネだけを集めても幸せになれるわけではない、というのと同じく、オカネがあまりないからといって、誰もが「幸せになれない」わけでは、決してありません。
ぜひ「モトあつめ」をやりましょう!!
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「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)