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欲張りは苦労のはじまり

自然はたくさんの恵みを与えてくれる。きっと人間が忘れたか、いつからか気づかないフリをすることにしたのだろう。

その恵みはまるで、空気のようである。必要な分はつねにあり、誰にでも分け隔てなく平等にある。そしてそのはたらきは、切り離せないほど身近である。必要で十分な量は、拒絶しなければつねに受け取ることができる。


昨シーズン、筍時期(4月中旬〜6月ころ)

筍採りをした。この場所は何人か知っているらしく、夫婦で来る人やらいろんな人が来る。採る分はあるかな、焦って農作業の合間に竹林に入っていった。もちろん、目立つところや近いところはすでに採られている。しかし、この時期の筍はどんどん成長する。雨後の筍とよく言ったものだ。雨の後には筍がどんどん出てくる。見つからなかった筍などは1メートル以上成長している。

少し時間はかかったものの、家族で食べるに十分な量以上が採れた。シーズン中何回か採ったが、毎回十分に採れた。年中食べる用に、塩蔵と煮沸瓶詰めも作った。いまだに食べきれていない。

そろそろ時期も近いが筍同様、ゼンマイ・わらび・タラの芽・ふきのとうなどの山菜もたくさん採れてくる。採れはじめは嬉しいが、たいていシーズン終盤は採りきれず終わる。


気づき

はじめは、全部採りきれずもったいないと思った。しかし、次から次へと自然は恵みを与えてくれるのである。ずっと筍にこだわっていたら、農作物の手間も割かれてしまう。安心して無理なく採れた分だけをいただけばいいのだと、割りきる様になった。たいてい、欲張って多く採ったときは、傷ませて終わったり、処分に困ったりするものだ。

自給自足も全く同じだ。一つの作物にいつまでもこだわっていると、他の作物の作付けが遅れる。切り上げも肝心。また大抵無理して、欲張って量を多く作ってしまうと、少ない量で手間をかけた方が多く収穫できたりする。うまく採れても、保存中に傷ませたりする。

また、今年は米が思う程採れなかったなぁ。などと思うと、収穫した小麦が十分あったりする。多品目なので当たり前といえば当たり前なのだが、これがダメならこれがあった。と、ちょうど食べるに困らない分が与えられているのだ。


過ぎたるは及ばずが如し

目安は、無理しているなと感じたときである。

無理して多く採った自然の恵み同様、無理するほど多く作った作物は、大抵余して悪くする。(もちろん多く採れた分はお裾分けや販売をするのだが、それでも、残ってしまうことが多い。)

まさに、過ぎたるは(過剰なさまは)、及ばずが(不足しているさまと)如し(同じ)である。

人生にも同じことが言えるのだろう。無理するほど欲張って、進めたことは大抵徒労に終わる。何事も無理しない程度の、ちょうど良いあんばい。がよい。


筍が教えてくれたこと

空気をいっぱい吸い込もうと、吸う一方なら苦しくなるのと同様、自然の恵みをいっぱい抱え込もうと、欲張ると労力や無駄な手間で、やはり苦労が多くなる。

欲張らず、必要なのは与えられていると安心してお任せした方が、よいのである。


欲張りは苦労のはじまり


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