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年齢の壁を破るあるいはギャルの知恵

先日、24歳の誕生日を迎えた。
たくさんの方々にお祝いのメッセージをもらったり、
大切な彼女から24個のプレゼントをもらったりと充実した誕生日になった。

しかし、歳を取る喜びは年々薄れている気がする。
20歳の頃は、1つ歳を取るということが大人に近づいているような感覚があって嬉しかった。
20歳になってできることが増えるということ以上に、もっと気分的な高揚感があった。
だかしかし、歳を取るということがいつかは、「また歳をとってしまった」という落胆につながっていくのだろうか。
周りを見てみると、特に女子の方がその辺には敏感なようで、自分の年齢をn歳とすると、毎年「n +1歳はやばい、おばさん」といっている。

自分がどうせなるものに対して、嫌悪感を抱くのは将来の自分を否定することになるのでよくないんではないかと思いつつも、常に今は大丈夫と思うことで毎年メンタルを保っているのだろう。

特に僕の歳、24歳周りの女子にはクリスマスケーキ理論というのがあるらしい。
それは、女子をクリスマスケーキに例えて、
24日(歳)で人気のケーキは人に選ばれ、
25日(歳)で人に選ばれないと売れ残りになり、
26日(歳)で残っていると廃棄になる。
という彼氏や将来の結婚相手を見つけようキャンペーン期間らしく1年というのがすごく重みを増す。

若さにしがみついているとろくなことがない。
「若い」と思われているうちは、学校でも会社でもその人への期待で判断される。
でもそれに安住していると、いつの日にか若さのメッキが剥がれて実態で判断されるようになる。
期待から実態への移行は突然で、勝手に裏切られたように感じてしまう。

なぜ人は、こんなに年齢で一喜一憂するのだろうか。
年齢とは人間が生み出した概念でしかないのに。
そもそも生まれてから死ぬまでただ時間が流れているだけではないか。
そこに24時間で1日という区切りをつけて、365日で1年という区切りを勝手につけているだけに過ぎない。
100日で1年としたってよかっただろうし、1000日で1年でもよかった。
今のように地球の公転周期で決めるとしたら、
半周を1年としてもよかっただろうし、2周で1年でもよかった。
マリオカートは3周で1コースである。

僕たちは自分で生み出したものに感情をコントロールされている。
何歳だから若いとか、おじさんとか、おばさんとか気に留めなくていい。
気にしなくていいことを気にしてストレスを生み出しているのなら。
自分で不幸になりに行っているようなものじゃないかと思う。

ここで大切なのは考え「ない」力であると思う。
自分で余計なことを考えてストレスを生み出してしまうなら、考えなければいい。
考えることはいつでも素晴らしいとされているが僕はそうではないと思う。
考えることと同様に考えないことも大切だ。

僕はそんなことをギャルを見ていて思う。
僕はkemioというギャルが好きだ。
最近は朝の準備をしながら彼のYouTubeを流している。
動画をどこから見ても面白いので流し見にはもってこいだ。
一般的なギャルではないかもしれないが、ギャルと自称しているのでギャルとする。

彼の好きな言葉で、

「それはその時のkemioが考えるから任せとこって感じで、とりあえず私は今のkemioをなんとかしてくのに忙しいぽい」

というのがある。
これこそ考えない力だと思う。
つまり、自分の中である程度ストッパーをかけてしまって、もうそれ以上は考えないことで今に集中できるということだ。
すごく素敵な考え方だと思うし、無駄なストレスを生み出さない一種の自己防衛法でもあると思った。

ただ考えないという事は簡単なようで難しい。
早く眠るために何も考えないように目を瞑ると、逆にいろんなことを考えてしまって眠れない夜は誰しもあっただろう。

思考をコントロールすることは不可能に近い。
人間が自由に動かせるのは筋肉だけであるという哲学者の言葉があるくらいだ。
でも、少なくとも気にしない努力をする事はできると思う。
考える自分がいればいるほど、考えないもしくは気にしない自分にも市民権を与えるべきた。
僕は今、自分の心の中にギャルを育てている。
考えたいことはとことん考えて、考えたくないものは気にしない、自分の都合よく生きる図太さが必要なのかもしれない。

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