よした

栃木県生まれ、男子校育ち、本読むやつは大体友達

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最近の記事

システム。人間。エピステーメー。

科学技術の発展により、人々の脳内を監視できるようになった世界。そこでは、犯罪係数と呼ばれる指標が常に計測されており悪意を持つ人間は即座に摘発され未然に事件は防がれる。これらを可能にしている大元のシステムがシビュラーシステムという大きな中央集権的コンピュータだ。そのシステムに従い社会の秩序を守るのが完全自律型ドローンと公安局刑事官の監視官と執行官である。シビュラーは絶対であり、シビュラーに潜在犯と認定された者はその犯罪係数によって様々に処される。比較的軽度の潜在犯はスタンガンの

    • SFの醍醐味〜鋼鉄都市を読んで〜

      僕が散々書いていることだが、SFとは構想されたあり得ない世界を楽しむものではない。むしろその中の人間模様を楽しむものである。世界は変わっても我々人間は根本的には変わっていない。もしかしたらボタンのかけ違いでそうなっていた世界に僕たちがいたらという体験をさせてもらえるのがSFの醍醐味であると思う。実際に、何千年後の設定の作品でも人間の中身は僕達とちっとも変わっていないことが多い。この作品、「鋼鉄都市」でも今よりずっと進んだ人類文明が描かれているが、その中で人々は懐古主義に浸り自

      • 社会、心、そしてまた社会

        春の冷たい露を受け葉桜も散ろうとしている今日この頃。私は社会人になった。どうやら社会との接し方が変わったらしい。そんな時ちょうど社会についての本を2冊読んだ。1冊目は、大黒岳彦の「情報社会の〈哲学〉」。そして2冊目は、東浩紀の「訂正可能性の哲学」。今回はこの2冊をあえて強引に混ぜながら今の僕と社会との距離感を測って行きたい。そもそも社会とは何であるか。社会とは国家とも宗教とも違うユニークな共同体である。それは境界がないからである。国家には、日本国民と非日本国民のように線引きが

        • 何者何色

          大学院を卒業してから就業するまでのこの1週間。ちょっと時間ができた。徒然なるままに文字を綴る中で、なんの肩書きもなく何者でもない今の僕を残しておきたいのだ。僕を含めて人は何者かになろうとする。ある人は資格を取ってそれを持って何者かに成ったと自分を誇るし、別の人は何者でもない自分に焦って遮二無二働く。でも何者かになんてなる必要があるんだろうか。何者でもないということは、無色透明であると言うことではない。私は赤である、私は青であると決める必要があるのかということだ。自分が何者かで

        システム。人間。エピステーメー。

          問いを問う〜銀河ヒッチハイクガイドを読んで〜

          本作は超空間ハイウェイ建設のために、地球が破壊されるところからスタートする。親友の宇宙人の助けを借りてなんとか爆発前に地球から脱出できていた主人公のアーサーは奇跡的に黄金の心号という最先端の宇宙船にヒッチハイクすることになる。そして一行はかつて宇宙全ての富の半分を所持していた星マグラシアを発見する。マグラシアは宇宙の富裕層からオーダーメイドの惑星を受注して製造することで巨万の富を積み上げた。そのマグラシアの老人から地球も造られた星であり、実は宇宙一のコンピュータとして宇宙一の

          問いを問う〜銀河ヒッチハイクガイドを読んで〜

          思想の蛇口〜ジョージ・オーウェル「1984年」を読んで〜

          僕にはできない。ここまで未来を絶望的に想像することなんて僕にはできない。本書は1949年に書かれた近未来SFである。1984年という出版当時にとっての未来は今を生きる私たちにとっては過去ものだが単なる昔の小説として看過できない不気味さがある。つまり作品で描かれた「1984年」は私たちにとっての近未来ディストピアであり続けているのだ。テレスクリーンという監視装置によってどんな細かな表情や挙動までもがビッグブラザーに監視されているというごくシンプルなSF設定からこれだけ厚みのある

          思想の蛇口〜ジョージ・オーウェル「1984年」を読んで〜

          夜に馳せる

          夜の散歩、草茂る河原、対岸の明かり あてもなく歩き出した僕はいつしかそこにいた 遠くで走る阪急電車の機械音だけがこの世界に馴染んでいない 目の前にあるのは暗く底冷えした川の流れ、草を弦にして響く風の音 それは音でもなく映像でもなくそこにあるもの 不意に足元の小石を投げた僕はその世界に参加したくて一石を投じたのだろうか 一瞬乱された世界はまたすぐに元に戻る どうやらこの世界への介入は難しいらしい 少し歩いてからちょうど良いところで寝転んでみた すぐそこにあるよ

          夜に馳せる

          本好きが今すぐ本を読みたくなるやつ

          この文章は本好きの本好きによる本好きのための讃美歌だ。 僕はメディアとしての本が大好きだ。映画でもテレビでもYouTubeでもなく本なのだ。今回は僕が思う本の魅力について手短に紐解いていきたい。一言で言うと、「主体的に世界を構築できる」からだ。まずは、「世界観を構築できる」のところから。本かテレビかに関わらず、作り手がいて受け手がいる。そしてコンテンツ作りとは作り手が届けたい世界を受け手に届けようという試みと言える。テレビや漫画では、作り手が構想した世界が一度記号にエンコード

          本好きが今すぐ本を読みたくなるやつ

          日本的霊性とヒップホップ 〜鈴木大拙「日本的霊性」を読んで〜

          西田哲学を概観した後に僕が手を取ったのが鈴木大拙だった。西田と鈴木は金沢出身の同級生であり、生涯を通してお互いに影響し合った盟友である。2人の思想には度々重なる部分があり、同じことを違う言葉で論じていることが多い。今回は鈴木の見方を切り口として世界について覗いてみようという意図があった。本書「日本的霊性」では禅や浄土思想を拠り所として芽吹いたタイトルのそれを語っている。面白いのは日本的霊性について、こうであるという説明がほとんどないことだ。代わりに日本的霊性はこれこれというは

          日本的霊性とヒップホップ 〜鈴木大拙「日本的霊性」を読んで〜

          本の今後、知はどこへ

          本や新聞の衰退が叫ばれて久しい。ではこれらが無くなるかと言われるとそうではないと思う。テレビが出てきてもYouTubeが出てきてもしぶとく残り続けているラジオのように細々と残っていくのだろう。ラジオもラジオのまま残るのではなく、podcastやvoicyのように形を変えながら残るのである。一介の紙本愛好家としてはなんとも心苦しいが、本も変わっていくだろう。ではどう変わっていくのだろうか。電子化などつまらない話はよしてもう少し大局的に考えてみたい。まず、需給のバランスが圧倒的に

          本の今後、知はどこへ

          凡夫のメディア論

          メディアmediaはmediumの複数形である。Mサイズという時のmediumと同じであり、何かの間に存在するものという原義がある。メディアというと思い浮かぶのは、テレビや新聞といったマスメディアだが元々のメディアの意味からすると非常に狭い使い方である。カナダの英文学者であるマクルーハンは「人間が作るものは全てメディアである。」とまで言う。人間が作るものは世界と僕たちをなんらかの意味で媒介するという意味で確かにメディアといえそうだ。この文で扱うメディアは後者的な使い方を想定し

          凡夫のメディア論

          無用と人類性

          無用こそが人類性の源泉なのである。 人間らしさとは何か。この問いは昨今ますます注目を浴びていると思われる。遺伝子編集やBMIの登場によってポストヒューマン時代が射程に入ってきた21世紀に改めて私たちは何者なのかという歴史の総復習が行われている。ポストヒューマンになる以前にヒューマンとはなんだったのか。僕はその問いに無用こそがヒューマニティーの源泉であると答えたい。それは他の動物にはない、(今のところ)コンピュータにもないことである。無用とは、「役に立たない・あってもなくても

          無用と人類性

          現代の風刺として見る無領空処

          漫画「呪術廻戦」で最強キャラとして君臨する五条悟。呪術師御三家の五条家に生まれた彼は、幼い頃から圧倒的エリートだった。無下限呪術と六眼を使いこなす豪快さ無双っぷりには少年心を惹きつけられる。そんな彼の必殺技が「無領空処」である。無領空処は五条悟の領域展開であり、そこに入った者には無限の情報が頭に流し込まれて脳が機能停止してしまい何もできない無防備な状態になるという。これってある意味で、情報社会にいる私たちを風刺していないだろうか。先日、東京に行き一泊してくる用事があった。ホテ

          現代の風刺として見る無領空処

          小坂国継「西田幾多郎の思想」を読んで

          まだ早い朝。電気ケトルを手に取り、水道から水を注ぐ。お湯を沸かしている間に今らか読む本を選ぶ。カチッという音が鳴る。ドラッグストアで買った安いドリップコーヒーを淹れる。朝日が半分だけ差したソファーに腰掛けて本を開く。 僕はこんな時間が好きだ。カフェでコーヒーを飲みながらというのもいいのだが、早朝の自分の部屋に優る場所はないんだよな。まだ誰も起きていない朝を我がものとした静けさといい6年間の付き合いの中で座り馴染むようになってきたソファーといいココにしかないものがある。そこでは

          小坂国継「西田幾多郎の思想」を読んで

          「ゴーストインザシェル」を見て

          心身のエンジニアリングが可能になり、人間の機械化が進んだ世界の話。ゴーストが心、シェルが体である。主人公は記憶を改竄されてテロリストを憎む公安に仕立て上げられたが、自分の心の中にある記憶の断片からこれが本当の自分の記憶ではないと感じ、自分を作った会社の闇に挑んでいく。僕がこの映画を見て思ったことは大きく二つある。 まずは、「記憶」についてだ。僕たちは自分は過去から現在にかけて一貫して自分は自分であるという認知がある。寝ている時は意識がないが、起きた時の自分と寝る前の自分が連続

          「ゴーストインザシェル」を見て

          ブラッドベリ「華氏451度」を読んで

          この小説では、本が禁忌物として忌むべき存在になったディストピアを描いている。それはつまり政府によって情報が統制された社会であり、戦中の日本など確かに存在したという意味でSFながら妙なリアリティを持っている。そんな世界の中で人々は考えなくなり、目の前の手軽な娯楽で満足するようになっている。僕はこの状況に私たちの今との不気味な親近感を感じる。先日、ゴールデンのテレビ番組で放送されていた内容がSNSでバズった動画をワイプの芸能人たちが見て笑うというものだった。横長のテレビ画面に、縦

          ブラッドベリ「華氏451度」を読んで