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【SF掌編】未來のアダム

これは去勢された、僕のお話。


「科学的去勢手術さえ受けていただければ、月々の保険料が八〇パーセントも安くなりますよ」

 デイビット・B(バイ)はごく朗らかな口調でそう言った。おだやかな午後の光がオフィスの小窓から差し入り、応接間のソファに影を投げかけていた。

 「ええ、それは何度も伺いました。伺ったうえで、他の方法はないかとお聞きしているんです」

 僕はこの聞き分けの悪い保険コンサルタントに対し、何度目ともわからない反論を口にする。しかし、デイビット・Bは相変わらずのそっけない口調で、

 「お客様の脳内テストステロン濃度は二〇〇pg/mlを超えています。これは全男性人口のなかでも、上位二パーセントにあたります。わが社の研究所のビッグデータによると、この二パーセントの方々は、性犯罪を犯す確率が平均の三.七倍に達しているのです」

 「だけど僕はバイセクシャルだ」

 「性的マイノリティが性犯罪を犯さない、というのは前世紀クィア・スタディーズの幻想です。実際にはバイセクシャルの犯罪率は、ヘテロセクシャルのそれと同等以上ですよ」

 思わず机から身を乗り出した僕に、デイビット・Bは「まあまあ、落ち着いてください」という感じで鷹揚に肩をすくめてみせる。C(張)=ロイズ公司の疑似人格AIともなれば、こんな高度な仕草もできるらしい。その人間臭さに、僕は少し気をそがれて、しぶしぶソファーに座りなおす。机の上には月5万ドルという法外な見積もりが表示されたウィンドウが浮かんていた。

 「去勢手術と申しましても、恒久的に性的不能になるわけではありません。逆に、一度レイプを犯してしまえば、脳内に抑制チップを埋め込むことを命令されます。チップは一生摘出不可能で、埋め込み手術は三〇〇万ドル。もちろん、お客様の自費です」

 それはよくわかっている。重犯罪をすれば抑制チップ、軽犯罪をすれば倫理プログラムの受講、これらは社会復帰のための最低条件だ。裁判所は、社会と犯罪者のあいだに立って、「どうすれば許されるか」を決定してくれるけど、その先までは面倒をみてくれない。刑罰が「服役」と呼ばれて、国家が犯罪者のためにお金を払ってくれていたのは、前世紀までの話。今では、犯罪者は自分のお金で「更生」しなければならない。それが二二世紀の「公正(フェアネス)」であり、「社会常識(コモンセンス)」だ。

 「私たち保険会社がしているのは、あくまでも更生のお手伝いです。【もし万が一】、加入者様が犯罪を犯してしまい、民間の矯正センターの倫理プログラムが必要となったら、その受講費のすべてを肩代わりする。お客様が科学的去勢手術を受けていただければ、【万が一】の確立がぐっと減少する。これは自由意志に基づいた、まったく公正な危機管理契約です」

 デイビット・Bが柔らかな笑みをうかべる。と、壁掛け時計が小気味よく針を鳴らす。顧客の気分を害しないよう、最大限に配慮されたこの空間は、かえってひどく不気味に思える。

 自由意志。たしかにこれは自由意志の問題かもしれない。保険に加入しないと、ほとんどの大学や企業に所属できない事実を抜きにするなら。あるいは、デイビット・Bはこう公弁するだろうか。「大学や企業に所属するかどうかだって、自由意志ですよ」、と。

「なんにせよ、去勢手術なんて到底受け入れられない。C=ロイズとの契約はできない」

 「勿論、それもお客様の自由です。私たちだって強制はできません。しかし、わが社より安い契約なんて、ネットのどこを探しても見つかりませんよ」

 僕は無言で退出コマンドを入力した。デイビット・Bと、高価な調度品に観葉植物の配置された仮想オフィスは即座に姿を消し、僕はみすぼらしいアパートの一室に戻っていた。



小さいころから、宇宙生物学の博士になることが夢だった。周囲の子供たちがフリーミアム(有料で無料な)動画サイトを見ているとき、僕は母親が買ってきてくれた古いSF小説ばかり読んでいた。姿かたちや言語がまったく異なり、同種の知性をもつかどうかも定かではない宇宙人たち。その解明にいどむ研究者たちの熱意と合理精神は、幼心にあこがれの的だった。家計が苦しくて、地域の格安学校にしか通えなかったけど、僕は周囲よりずっと熱心に勉強した。僕の難解な質問は、しばしば安物の教師AIには手に余ったので、母が事典ストリーミングサービスを契約してくれた。

大学に進学するのは、夢の第一歩だ。だけど、どの巨大銀行(ギガバンク)をたずねても、僕の融資限度額は学費の五分の一にも満たない。銀行の連中は僕の経済評価を同じソフトウェアに代入していて、その結果はつねにろくでもなかった。原因はおもに二つ。一つは専攻である宇宙生物学の将来性のなさで、銀行のAIは分子生物学に転向するようにと、しきりに僕を催促した。そしてもう一つは潜在的犯罪可能性の高さ。これは専攻よりもずっと厄介な問題だった。融資だけではない。もし僕が倫理プログラムの受講代金―おそらく生涯収入の二倍以上―を支払えなかったら請求書は大学に届く。だから、大学は保険加入を義務付けている。

C=ロイズに相談して以来、僕は一カ月の間に何件もの保険会社を訪問した。皮肉にも、あの癪に障るAIが言った通り、C=ロイズ以上に条件の良い会社はなかった。高額な保険料を払わなければ、保険に入れない。保険に入れなければ、十分な融資は受けられないし、そもそも大学に入学できない。残酷なジレンマのなかで、僕はしだいに判断力を奪われていった。入学受け容れまで二カ月を切ったその日、僕はようやく決断を下した。


デイビット・Bは一カ月前とまったく変わらない様子で僕を迎えた。

「手術はわが社の負担で行われます。左手に埋め込まれたインプラントチップが、血液内のテストステロン濃度を常に関知し、一定以上の濃度になると負のフィードバックループを起こします」

複雑なタンパク質の3Dモデルを見せながら、AIは僕を見やって、

「ナノマシンから生成された抗アンドロゲン受容体が、すみやかに脳内のアンドロゲン受容体に結合します。こうしてアンドロゲンは作用を失効し、常に性的興奮は抑制されます」

これは抗ホルモン療法よりずっと安全で副作用もありませんよ―、デイビット・Bは最後にそう言って、僕を手術室に送り出した。


 生身(レアー)のセックスなんて普通の人はまずやらない。だから、僕の身におきた変化といえば、想像よりずっとポジティヴで、むしろ快適なものですらあった。例えば同年代の男と違って、大手の寡占ポルノ・サイトに高額なストリーミング料金を支払う必要はまったくなくなったし、不愉快な情欲に振り回されることもなくなった。街中で胸板の厚い黒人男性をみても、ショートボブの少女の襟首をみても目移りしない。一方で、AR広告の美形モデルには相変わらず目が引き寄せられてしまい、これは「美」を感じる脳領域と「興奮」を感じるそれとが、実は微妙に異なっているからに違いなかった。「美」と「興奮」が違うように、「興奮」と「快感」も違う。僕はもうマスターベーションはしなくなったけど、ちゃんと夢精は二週間ごとに起きて、むずつく感覚を教えてくれた。


 手術のおかげで首尾よく大学に入れたし、雑念がないぶん、成績も抜群によくなった。宇宙生物学の学会ではかなり有名なゼミに招待され、やがてインド系の彼女ができた。

 彼女とのベッドはいつもVR上でだった。僕は黒人男性のアバターを、彼女は日本のアニメキャラのアバターを使って、電子ドラッグでオーガズムを味わった。僕の現実の身体は、一ミリも反応しなかったけど、それで彼女が不満をいうことはなかった。僕は彼女に危害を加えることは絶対に【ありえなかった】し、彼女は僕を信頼して、まるで同性の友人同士のように親しくしてくれた。

 まちがいなく僕は公私ともに充実していた。だけど、僕はどうしてこんなに信頼されているだろうか。犯罪を起こせないから……、それは僕に【意志】がないから? それとも【能力】がないから? 僕は彼女を犯す妄想をしてみた。だけど、それはいつも途中で急速にリアリティを失い、空虚に解体されるのだった。左手のぷっくりとしたふくらみを見る。こいつが僕の意志を操っているのか? ナノマシンを利用して。でもそれなら、元々のアンドロゲンだって、僕の意志を操っているんじゃないのか……いつしか僕は日常の選択が、自分の下したものとは思えなくなった。どんどん現実が遠ざかっていく恐怖に、僕はひどくいらだった。


 その日は友人たちと電子ドラッグパーティーをひらいた帰り道だった。僕は参加者の黒人青年と親しくなり、ひさしく行われていない生身のセックスという秘儀を経験するため彼の家に宿泊した。その頃、僕はもう大学にはほとんど通っていなかった。

 彼がシャツを脱ぐと、黒光りする上腕二頭筋があらわになった。僕はその筋肉質な盛り上がりにひどく興奮したけれど、その興奮はたちまち消え去り、いつもの不愉快さだけが残った。彼をベッドに押し倒した状態で、僕ははじめて自分の境遇を告白した。すると彼は、僕の小さな下腹部を指さして、「***」といった。それはいまや使われていない、古い黒人スラングだった。茫然とした。直後に猛烈な怒りがこみあげてきて、僕は感情のままに彼を殴りつける。二度、三度と拳を振り下ろすと、彼は大きな図体を縮こませ、ベッドから転がり落ちて許しを乞うた。その姿がとても愉快で、なにやら嬉しくて、脳の一端が懐かしいうずきを覚える。「やめてやめて」と叫ぶ彼を、僕はなんども殴り、好き放題にあつかった。

 気が付くと彼は血だまりに沈んで、ぴくりとも動かなくなっていた。それを見下ろし、ここ数年以来はじめての満足感にひたり終えると、僕は自分のなしたことが急に恐ろしくなった。殺人―、最低でも三〇年の倫理プログラム受講。しかもここまで過失が大きいと、C=ロイズはまず保険金を払ってくれないだろう。大学からは追放され、二度と社会には復帰できず、一五〇歳まで無償労働に従事することになる。暗澹たる未来を想像して、僕は転げるようにその場から逃走した。

 

 裁判所の面会室にやってきたデイビット・Bは、数年前と変わらぬスーツ姿だった。

 「お久しぶりです、お客様。本日は当社の筆頭弁護士を連れてまいりました」

 そう告げるAIの後ろには、いかめしい中年男が立っている。C=ロイズお抱えの世界最強の弁護団。これから僕に社会的死をつきつける冷酷な死神の目線だった。

 「僕の負担割合は……せめて七割、いや八割に留めてもらえませんか」

 僕が押し殺された小鳥のような声を振り絞ると、しかし、デイビット・Bは僕に向かって、深々と頭を下げた。

 「この度は本社の不手際でご迷惑をおかけし、大変に申し訳ありませんでした」

 「え?」と僕が声を上げると、AIは背後の弁護士を見やって、

 「お客様にご提供したインプラントに致命的な欠陥が発見されました。チップから放出される抗アンドロゲン受容体が興奮作用を抑制することで、かえって強烈な刺激を求めるようになり、いわゆる征服欲が高まってしまうのです。今回の件、お客様には一切の非はございません。後の手続きは彼から」

 AIと入れ替わるように弁護士が、

 「当社の弁護団はお客様の無罪立証にむけて最善の努力を尽くします。ですので、賠償金額についてはなにとぞご容赦を」

 「ちょっ、ちょっと待ってください。僕は罪を犯しました。【たしかに自分の意志】で。なのに無罪だというんですか」

 「こう考えてはいかがですか。貴方はスピード違反を起こさないように、制限装置付きの自動車―勿論、手動運転車です―を買った。言い換えれば、自分の意志で犯罪を封じ込めた。しかし、その制限装置は知らないうちに壊れていた。貴方に罪はありません」

 僕は叫ぶように、

 「じゃあ、罪がないなら、良心はあるんですか。僕はこの一件まで犯罪を決して侵さなかった。なぜなら自分でその可能性を奪っていたからだ。犯罪ができない人間が犯罪を犯さないのは、鶏が空を飛ばないのと一緒だ。だったらそれは良心なんですか?」

 問いかけは宙にこだました。しかし答えられるものは誰ひとりいなかった。












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