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わたしという人間について

初めての記事を書くにあたり、自分という人間について考えてみようと思う。

私は女性だ。

現在の私の生活を送っている日本人の同年代女性はとても少ないだろう。つまり私はその点からみればマイノリティに属する。そして私のような過去をもつ人間も少ない。悪いことをしたわけではないのに、過去を隠しながら生きている。10代から生きづらさを抱えてきたが、なかなか生きやすくはならない。工夫をしてみては、喜んだり落ち込んだりと、試行錯誤の日々だ。もうそんな日々が10年以上続いている。

私は世界に興味がある。世界各地の文化を知りたい。エゴ極まりない動機だが、さまざまな場所の「当たり前」を知ることによって、自分の中にある「当たり前の概念」を壊してしまいたいのだ。そうすることによって少し生きやすくなるのではないかと考えている。いや、頭で考えて実行しているというより、心がそれを求めている、そんな感覚だ。

さて、生きにくいという感覚は苦しく、自分にとって解決したい問題だが、近ごろは少し自分を否定することが減ったように思う。

語弊を招く表現になってしまうかもしれないが、「マイノリティである自分が悪い」のではなく、社会とはそもそも「マジョリティが生きやすいもの」だから、「マジョリティにとって都合の悪いものが悪にされやすい」という考えを強く持つようになったからだ。

自分の苦しみをすべて社会のせいにするつもりはない。しかし私が理不尽に否定されてきた部分が多いことは事実だ。「否定される自分は価値がない」のではなく、

「この社会では否定されやすい要素を自分は持っている、しかし、それによって自分の価値が決まるわけではない」

「この社会で評価されにくい能力も、他の社会では評価される可能性がある」

「だから、自分の価値を否定するのはやめて、自分が生きやすい可能性の高い社会を探しながら、今の社会で工夫して生きていこう」

と考えている。自分が生きやすい社会を見つけるなんて夢物語かもしれない、しかしその夢を心の中に持っていることが、私にとって大切なのだ。

毎日、先ほど述べた考えと自己否定の狭間で私の心は揺れている。

もしかしたら、心が揺れなくなった時、私は案外この社会でも生きやすくなるのかもしれない。私がとらわれているのは、数々の否定された言葉なのかもしれない。

私は一つの考えに縛られることが苦手だ。自分が正しいと思う考えに対しても、~~かもしれない、と違う可能性をぶつける。自分が偏った考え方を持ってしまうことが怖いのだ。

このように考えることが好きな私は、noteというツールを使って自分の考えていることをアウトプットすることにした。

読んでくださる方にはたくさんの感謝を述べたい。


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