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【1】ぬるくなったココアを交換して、明日また会う約束をした。

その日は、人一倍雨音が激しい日だった。
最近降っていなかった分を取り戻すかのように、雨が降った。
雨の日は本当に嫌いだ。
昔から、良くないことが起こるのは決まって雨の日だからだ。

大型トラックに道で水をかけられるのも、雨。
普段躓かない場所で躓くのも雨。
大好きな友達が事故で亡くなった日も、土砂降りの雨。

私に直接関わるようなことじゃなくても、なんだか雨を呪っている自分のせいな気がしてならない。
「ごめんなさい。」
雨の日はそう何となくつぶやく。
誰へでもない、思いの籠っていない謝罪は空に消える。
空に消える瞬間、またそれが私に向かって雨となり降り注いだ。

雨から逃げるように、私はカーテンの裾を掴んで
視界からどんより雲と雨粒を消した。
視界からは消えても、聴覚と嗅覚に居座る雨に
苛立ちを覚えた。

カーテンを閉めて一層暗くなった部屋に、人間がひとり。
今日もひとりか、なんてため息をつき飲み込んだ。
これ以上、幸せを逃すわけにはいかない。

室温の寒さに耐えながら、キッチンに向かう。
一人暮らし用の、作業スペースがほとんどない小さなキッチンだ。
小さなやかんを火にかけ、揺らぐ炎を見つめた。
「雨はまっすぐに降るけれど、君はゆらゆらと揺れるんだね」
ひとりしかいないキッチンに、呟きが響いた。
それは虚しい響きになって、また帰ってくる。
帰ってこなくてもいいのに、なんて思いながら体がそれを吸収した。

キッチンの戸棚から、ココアの粉が入った袋を取り出した。
カサカサ、と音を立てて残りを確認する。
今から飲む量を入れて、あと2回分くらい残っていた。
袋の口を開けて、ココアの香りを嗅ぐ。

銀色のスプーンを取り、水色のマグカップに茶色い粉をそっと入れた。
粉をカップに注いだ瞬間に、やかんが蒸気と音を連れてきた。
やかんを手に取り、マグカップの上で立ち止まらせる。
やかんは傾いてマグカップに向かい、お湯が降り注いだ。
そして、粉とココアはカップの中で混ざり合い、甘い匂いが部屋中に立ち込めた。

マグカップを持って、丸テーブルの近くに座ろうとした時急にインターホンが鳴った。
誰か来る予定が入っていたかを確かめたが、あいにく今日は何もない。
不思議に思いながら、ドアの方へ向かう。
錆びれたドアの覗き穴を、少し背伸びをして覗いた。
穴の中心に、ずぶ濡れの人間がひとり、そこに居た。
短い髪の毛からは雨の水が滴り落ち、つるんとした瞳がこちらを向いている。
その顔に見覚えはあった。友達の成瀬だ。
ドアに手をかけて、押すと成瀬は「いや〜ごめんごめん、ちょっと雨宿りさせてくれない?」と言った。
「いいよ」
私はただそう言って、成瀬にタオルを用意しようと思った。
ココアの残り香の中に、雨の匂いを成瀬が連れてくる。
もはや客人は成瀬だけではなく、雨御一行のように感じられた。

私は成瀬にバスタオルを渡しながら「これで拭きな」と言った。
成瀬は「ありがとう」と言ってバスタオルで
ずぶ濡れになったパーカーとズボンを拭いた。
こんなラフな格好でどこに行こうとしていたのだろう。
「どこか行く途中かなんかだったの?」
「うん…まあ」
「こんな雨の中で?」
「…うん」

成瀬からは覇気の無い返事しか返ってこなかった。
まあいいか、と思いながら髪の毛を拭く成瀬を見つめていた。
「クシュン」
静かな部屋に成瀬のくしゃみの音が響いた。
それを聞いた私は「はははっ」と笑い、成瀬にココアを入れてあげようと思った。
とっくに、さっき自分に入れたココアは、もう冷めていた。

寒そうに震えている成瀬に、私は熱めのココアを差し出した。
「ありがとう」
成瀬はそう言って、熱々のカップを見つめた。
なかなか飲もうとしないので、「どうしたの?」と聞くと「…猫舌なんだ」と言った。
そして、テーブルに置かれたままの私のココアを見て、「それ僕にちょうだい」と言った。
「これ、もう冷めちゃってるけど、いいの?」
「いいよ、これぐらいじゃないと飲めないんだ」
そう言って成瀬は、自分の熱々のココアと私のココアを交換した。
熱々のココアは成瀬の心を映しているようで、もっと暖かく感じた。

テーブルにココアの入ったカップが二つ。
気づけばその二つは空っぽになっていた。
空っぽになったカップをシンクで洗い終わる頃には、雨はすっかり止んでいた。
彼の本当の目的は雨宿りじゃなかったかもしれないけれど、一応目的は果たされた。
「そろそろ帰るね」
成瀬がぽつりと、晴れ間の覗いた空を見ながら言った。
もう彼は、私に会いに来なくなるかもしれない。

「ねぇ」
「何?」
「ココアの粉、買ってきてくれない?」
「どうして?」
「君が来た分で無くなったから、さ。明日でいいから買ってきてまた家に来てよ」
「…わかった」
こうして私は玄関先で成瀬と次の日に会う約束をして、その日はさよならを告げた。


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