本の虫は羽ばたいた...けれど。
自分は幼い頃、四六時中本を読んでいるような子供だった。
本をたくさん読んでいたおかげで、
何もしないよりは語彙力がかなり上がったし、
少し難しい漢字だったり、言葉を知っていた。
ただ毎日見ている景色も、さっきまで読んでいた
本の情景に合わせてみたり。
本の主人公になりきって、「この人ならこういう状況の時はこうするのではないか」なんて考えたりしていた。
本を読んでいることで、できることが増えた。
日常の小さなことに気づけたり、
人の気持ちに寄り添えるようになったり、
想像力がだいぶ豊かになったと思う。
その想像力を、自分に還元出来た時はこの上なく嬉しかった。
この感覚を、大事にしていきたい…そう思っていたのだが。
年齢が上がるにつれて、本を読まなくなった。
今では、大学で与えられた課題のために本を読むくらいだ。
それはとても義務的なものだ。
だから、想像力云々ということは一切無しに
作業と化しているためこれは正直、読書にカウントしていない。
本を読む時間は、多分ある。
大学生だから、義務教育みたいにずっと拘束されるわけではないから時間はあるはずだ。
隙間時間…とか。
…
隙間時間は、電子機器に支配されている。
スマホだ、パソコンだ、に。
気づいたら、読書に費やすことができるであろう時間はすべてそれらに消えている。
また、講義の時間以外は部活やバイトで消える。
忙しい理由を探せばいくらでも出てくる。
でも、本を読まないという根拠にはならない。
無駄な時間を全て削れば、本を読む時間なんて作るのは容易なはずだからだ。
…でも、こんな感覚では良くない気がする。
自分が本の虫であった時は、本を読むことが「生活の一部」だった。
本を読むということが習慣であって、今みたいに
「本を読まなければ」という必要に駆られるような行為でもなかったはずだからだ。
本の虫に戻りたい。時々そう思う。
感性の高い人に出会った時。
尋常じゃない量の知識量を見せつけられた時。
人と話していて、上手く言葉を紡げずに困った時。
本の虫が虫ではなく、年齢を重ねて蝶に羽ばたいて何か成長したように見えた。
しかし、自分の手元に残ったのは本を至近距離で読んだ代償である視力の低下とわずかに残った語彙力だけのようだ。
想像力は、もっぱら消えたような気がする。
全く消えたわけではないが、豊かさを日常に見出せるほどは残っていない、ということだ。
要するに、見てくれは綺麗な蝶だが中身はスカスカということである。
このように現在の自分の状態をおこがましくも蝶であると仮定した時、それは様々なものが抜け落ちた未完成な蝶であるように思う。
これから、本に触れる機会を少しずつ増やすことで虫にはなれなくても蛹ぐらいにはなれるだろうか。
想像力も語彙力も、伴った形の蝶になれたら。
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