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【小説】 トランジット 第3話

今日は金曜日だし早めに仕事を切り上げよう。そう思って時計に目をやると、既に20時を回っていた。今週は面倒な案件の対応で疲れ切っていて、一刻も早くこの真っ白で息苦しいオフィスから出たかった。

「高木さん、この資金計画なんだけど」

佐竹課長の声にどきりとする。何か不備を見つけたときの声のトーンだ。
「この取引先、決算書を見ると信金からも借入あるみたいだけど、計画にその数字含まれてる?」
「あ、すみません、見落としてました。先方に確認して修正します」
「いやいや、修正というかね、返済額が間違っていたら正常な融資判断できないでしょ?決裁回す前にちゃんと確認したの?」
佐竹課長は淡々と話す人で、声を荒げたり理不尽に叱責したりということはないけれど、この人に問い詰められると僕はいつも呼吸が乱れてしまう。
「確認不足でした、申し訳ありません」
「何回か同じ注意をしたような気がするんだけど。こういうミスは1年目で卒業してもらわないと」
「はい、申し訳ありません」
ため息をつき、課長が席に戻る。

僕の「申し訳ありません」は、この3年でずいぶん軽くなったように思う。社会人になってから、自分に非があるかないかにかかわらず、とりあえず謝らなければならない場面が本当に多い。本当に申し訳ないと思っているかどうかはあまり重要ではなくて、それでその場が収まるということが大事なのだ。

自分も小さくため息をつき、PCの画面と向き合う。
キーボードを操作しながら、「少額の借入なんだから融資判断は変わらないだろ」とか、「何回か注意したって言うけど今回でせいぜい2回目じゃないか」とか、自分を正当化するための言葉を頭の中でつぶやく。苦手な人に間違いを指摘されると、自分に非があるときでも、自分を正当化する言葉を探さずにいられない。見つけた言葉を口に出すわけでもなく、頭の中でぶつぶつと呟いて憂さを晴らす。我ながらあまり気持ちのいい性格ではないなと思うけれど、これは僕の直らない癖だ。

「おい、目、怖いぞ」
隣の席から不意に声をかけられて、肩が少し跳ねてしまう。
「え、今やばい目してました?」
「うん、PCに呪いかけてるんかと思った」
岩田さんが笑いながら言う。岩田さんは40手前だけれど、見た目や話し方が若いのでそんなに歳が離れているようには思えない。フランクで面倒見のいい人で、この人がいなかったら、僕の社会人生活はもっと寒々しいものだっただろうと思う。

「今日終わったら軽くどうよ」
岩田さんがグラスを傾ける仕草をする。
明日も大津と飲む予定だし2日連続か、と少し躊躇する。でも今週は残業続きで、最後の最後に佐竹課長の小言もくらって、胸のあたりになんだか嫌なものが溜まっているのがわかった。このまま家に帰っても気持ちよく寝付けない気がした。
「いいっすね。行きましょう」
「じゃあ俺、下の喫煙所でタバコ吸ってるわ。終わったら来て」
そう言うと岩田さんは帰り支度を手早く済ませ、オフィスを出ていった。
僕も残りのこまごまとした週締めの業務を終わらせて、急いで帰り支度をした。どうせさっき佐竹課長から指摘された部分は取引先に確認してからでないと修正できないし、あまり岩田さんを待たせたくなかった。

「お疲れさまでしたー」
できるだけ佐竹課長と目を合わせないようにしながら、誰にともなく部屋全体に声をかける。後ろから課長が苦々しい顔でこちらを見ているような気がして、その視線から逃れるように、足早にオフィスを出る。
後ろ手にドアを閉めると、まだ屋内なのに肺に新鮮な空気が一気に入ってくる感じがして、さっきまで浅い呼吸しかできていなかったことに気づく。

1階に降りると、岩田さんは喫煙所で隣の課の金井課長と談笑していた。
ガラス越しにこちらに気づいた岩田さんは、金井課長にじゃあ、と会釈して吸いかけのタバコを吸い殻用のごみ箱に捨て、喫煙所から出てきた。

「早かったな。店、たかの屋でいい?」
「あ、はい」

たかの屋は個人経営の居酒屋で、テーブルが5つと、あとはカウンター席が数席あるだけのこぢんまりとした店だ。騒がしい客もあまりおらず、ゆっくり話ができるので、僕と岩田さんが二人で飲むときは大抵ここと決まっていた。

金曜ということもあり、たかの屋のテーブル席はすべて埋まっていた。カウンターに案内され、岩田さんと横並びに座る。ビールと、刺身と串を適当にオーダーする。

「お疲れさん」
「お疲れっす」

冷えたビールを喉に流し込むと、さっきまで胸のあたりに沈殿していた嫌なモヤモヤが、胃の中に落ちていく気がした。胃の中に落ちたモヤモヤはビールに溶けて、明日には体の外に出ていってしまうだろう。渦中にいると大げさに考えてしまうけれど、僕の憂鬱はビールで洗い流せてしまう程度のものなのかもしれない。

「今週はお互い大変だったな」
岩田さんが僕の背中をぽんと叩く。
「いや、ほんとにすみません。自分の案件でいろいろご迷惑おかけして」
今週、担当している取引先から急ぎで融資をお願いしたいと連絡を受け、僕はその対応に追われていた。しかし、大口の相談だったこともあり、途中から佐竹課長の指示で担当を岩田さんに移したのだった。
「それにしてもあそこの社長も無茶言うよな。あの金額を今月中にってさあ」
「そうですね。それに…自分が言うことじゃないかもですけど、課長もなんでよりによって岩田さんに振るんですかね。山本さんとか、もっと暇そうにしてる人いるのに」
僕の課は忙しい人とそうでない人の差が激しく、佐竹課長からの信頼が厚い岩田さんには最も業務が集中していた。
岩田さんは、ほんと勘弁してほしいわ、と笑ったあと
「まあやるけどね。サラリーマンだし」
と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「なんかそれかっこいいっすね」
「どこがだよ、全然かっこよくないだろ」

サラリーマンだし、という岩田さんの言葉は、あきらめのようにも聞こえたし、自負のようにも聞こえた。あるいはその両方を含んでいるのかもしれない。いずれにせよ、岩田さんが十数年この会社で働いてきた実感の上に成り立っている言葉のように思えた。僕は、この人と話をしているといつも、自分が幼なく感じられる。

「なんか大人って感じがする」
「うーん、大人ですねって、この歳になると褒め言葉じゃないんだよなあ。ていうか、お前ももう大人だからな。」岩田さんが笑う。

「いやあ、そうなんですけどね。」
僕が同じ言葉を言ったとしても、岩田さんよりずっと薄っぺらく聞こえるのだろうと思う。今の仕事の中でこれといって大きな修羅場をくぐっているわけでもないし、現実との間で折り合いをつけるべき理想や使命感みたいなものもない。なんとなくここは自分の居場所ではないと感じながらも、辞めたとて何をすればいいのかわからないから続けているだけなのだ。そしてこの会社はそんなふうにして働いている人が無数にいるように思えた。

「なんて言うか、このままずっと…」
途中まで言いかけて、そのあとを続けるのをためらう。十数年間この会社で働いてきた岩田さんに「こんなことをあと40年も続けられる気がしない」と言うのは少し気が引けた。
岩田さんは次の言葉を継げずに黙っている僕をしばらく待ったあと、口を開いた。

「まあ、わかるよ。あんまり華やかな仕事でもないし、ルールもやたら多くて自由じゃないし。俺も若い頃は、ここは俺の居るべき場所じゃないって思ってたなあ」

岩田さんは僕が言おうとしたことも、そしてそれを言うのをためらった理由も、全部見透かしているようだった。見透かされてしまうのなら言うべきだった、と後悔する。言うのをためらって生まれた沈黙の方が、言おうとした言葉以上に多くのものを表してしまっているように思えた。僕がこの仕事を、この会社を、そして岩田さんをどんなふうに見ているのかを。

「やっぱりさ、誰だって華やかにかっこよくやりたいんだよ。面白いことだけやっていたいんだよ。でもさ、自分が今普通に生活できてるのって地味に見えることとか面倒くさいこととかを、真剣にやってる人のおかげなわけでしょ?それを当たり前のように受け取って、それを土台にして生きてるわけじゃん?俺らは。」
岩田さんはそこまで言って一息ついた。

「だから…この仕事も悪くないかなって思ってるんだ」
少し言葉を探したあと、ぽつりとそう言った岩田さんの横顔は、穏やかだった。

岩田さんのように、誰かの仕事を受け取って生きているということをもっと敏感に感じられれば、自分が感じている息苦しさにも意味があると思えるようになるのだろうか。岩田さんのように穏やかな顔で「悪くない」と言えるようになるのだろうか。
だけど、少なくとも今は、そんな自分をイメージすることができなかった。

なんだか胸のあたりに、また新しいモヤモヤがうまれているような気がして、僕はジョッキの底に残っていたビールを一気に飲みほした。

                   *

昼前まで寝ていたこともあって、大津と待ち合わせた18時には昨夜のアルコールはきれいに抜けていた。大津が予約してくれた居酒屋に着くと、お連れ様がお待ちです、とテーブル席に案内された。

「よう、久しぶり」
数か月ぶりに会う大津は少しやせたように見えたが、表情は明るかった。
「少しやつれた?」と聞くと、「失礼な奴だな、引き締まったんだよ」と言って、Tシャツの裾をまくり上げて腕の筋肉を見せてきた。そして、最近ジムに通っていてそこのトレーナーがエロいだの、サウナにもハマっていて毎週いっているだのと、自分の話をし始めた。
支店でのパワハラのことや、会社を休んでいたことについて、それとなく聞こうと思っていたけれど、大津はそんな隙をこちらに与えなかった。でも、これだけ元気ならもう大丈夫なのかもしれない。
一通り自分のことをしゃべり倒したあと、大津は
「高木はさ、うちの会社でずっと勤めようと思ってるわけ?」
と急に真面目な顔をつくって聞いてきた。
突然話のトーンが変わって少し面食らったけれど、それは僕が今、一番話したいことだった。
そんな質問をするということは、大津もやはり僕と同じように、この会社を自分の居場所ではないと感じているのだろう。そう思うと少し安心した。昨日、岩田さんに話そうと思って飲み込んだことを、大津には素直に話してみようと思った。
「まあ、ずっとっていうのは…正直イメージできないかな。なんかはっきり不満があるわけじゃないけど、どうしても無理って思う瞬間があって…」
「そうだよな。いや、俺もそうでさ」
大津は僕の次の言葉を待たずに、また自分の話を始めた。
「なんかこのまま続けても先が見えちゃってるっていうか、つまんねえなって。本当に自分がやるべきことができてないっていう気がする」
大津の口から出てきた言葉は、自分の感覚とは少し違っているような気がして、「うー…ん」と肯定なのかどうかもわからない、歯切れの悪い相槌が出てしまう。しかし、大津はそんなことは気にしていないようだった。
「だから俺、もうそろそろ会社辞めようと思ってるんだよ」
「え?」
間の抜けた声が出る。てっきり自分と同じように悶々と悩んでいるものだと思っていたが、大津はもう結論を出していて、先に進もうとしていたのだ。
「え、会社辞めてどうするの?転職?」
「いや、ちょっと個人でビジネスをやろうかと思っててさ」
起業する、ということだろうか。想像と違う方向に進んでいく話に、頭がついていかない。
「ビジネスって、なんの?」
「まあいろいろ試してみようと思ってるんだけどさ。コンサル…みたいな?」
大津が急に言葉を濁した。嫌な予感がする。
「いきなり個人でコンサルって誰相手に?っていうか、なんのコンサル?」
僕が詰め寄ると、大津は、「まあ俺とか高木みたいにキャリアで悩んでる人の相談に乗ったり、副業支援したり」などと、また曖昧な、要領を得ない説明をした。当人がまさにキャリアで悩んでいるのに、どうやって他人の相談に乗るというのだろう。
「客はどうやって集めるの?」
大津は、それは問題ない、と自信ありげに言った。
「実は最近めちゃくちゃお世話になっている人がいて、当面はその人に仕事回してもらおうと思ってる。長谷川さんっていう人なんだけどその人がマジですごくて」
大津の話によれば、その長谷川という人物はいくつもの会社を経営するかたわら、キャリアで悩んでいる若者の相談に乗って、指導しているらしい。大津は今すでに長谷川のビジネスを手伝い始めていて、軌道に乗ったら会社を辞めようと思っている、ということだった。
僕の嫌な予感は、もうほとんど確信に変わっていた。電話をしたときに感じた違和感の正体も、これだったのだろう。

『まだあんまり知られていない情報なんだけど』『親会社は海外で日本ではまだ広がっていないけど』『今始めれば』大津はどこかで聞いたことのあるような「うまい話」を滔々と語っていたけれど、僕はその内容をほとんど聞いていなかった。

「あのさ、大丈夫な話なの?それ」
「怪しくないかってこと?まあそういう風に考える人がいるのもわかる」
だけど、と大津が言う
「俺は野生のカマスでいたいんだよ」
「カマス?」
「うん。カマスっていう魚いるだろ?カマスってさ、すごく獰猛な魚で人間にも襲いかかったりするらしいんだけど、そのカマスを使った実験があって」
急に何を言い出すんだ、と思っている僕をよそに、大津は話を続ける。
「カマスと小魚を同じ水槽に入れて、その間に透明なガラスの仕切りを入れるんだよ。そしたらどうなると思う?」
「まあ、小魚を食べようとしてカマスがガラスにぶつかるんじゃない?」
「そう。小魚を食べようとするたびにガラスに何度もぶつかるだろ?そしたら『どうせ食べられない』って学習して獰猛だったカマスが無気力になっちゃうんだよ」

何度も失敗して痛い目をみたカマスは、小魚との間のガラスを取り除いても、小魚を食べなくなってしまうのだそうだ。しかし、水槽に別の野生のカマスをいれて、目の前で小魚を食べているところを見せると、無気力になっていたカマスも野生を取り戻し、また小魚をたべるようになる。そんな話を大津は流暢に語って聞かせた。

「で、俺は野生のカマスでありたいなって思うわけ」

このたとえ話を大津が語り出した意図はすぐに分かった。長谷川のビジネスの話を「そんなうまい話はない」とか「怪しい」と思うのは自分で勝手に壁があると思い込んでいるからだ、野生を失ってしまっているからだ、と言いたいのだろう。

「高木とか椎名は、なんとなく俺と近い気がしてんのね。たぶん野生のカマス。でも他の同期とか先輩は、俺には会社っていう水槽で飼いならされて、ガラスにぶつかって、いろいろあきらめちゃったカマスに見えるわけ」

大津の目は、僕の目を見ているはずなのに、僕のずっと後ろの遠くの方で焦点を結んでいるように見えた。大津の目の前には僕しかいないはずなのに、大津は僕に向かって話していない、そんな気がした。

もうやめてくれ、という言葉が喉まで出かかっていた。くだらないたとえ話でひとを丸め込もうとするようなやり方も、僕やハルとのつながりを、そんな文脈の中で語ることも。

「で、このあと長谷川さんも呼んだからさ、3人で飲もうぜ」
一瞬自分の耳を疑った。

「は?ここに来るってこと?」
「おう、長谷川さんと話すとマジで人生観変わるから、高木も絶対一回会ったほうがいい!」

もうだめだ、無理だ。さっき喉まで出かかっていた言葉は吐き気に変わっていた。
もう大津の話を聞きたくなかったし、何も話したくなかった。
だけど。

「大津、変なこと聞くけどさ」

大津の目を見る

「おう、何?」

「俺たち友達だよな」

一瞬、大津の表情が変わった。今日、初めて大津と目が合った気がした。
だけどまたすぐに不自然な笑顔をつくって、当たり前だろ、だから紹介するんだよ、と言った。

「ごめん、今日はもう帰るわ」
僕は席を立ち、財布から5千円札を出して机に置いて、逃げるように店を出た。はやく外の空気を吸いたかった。
店を出て駅の方に向かって走る。背後から大津が何か言っている声が聞こえたけれど、店の外まではもう追ってこなかった。走って、走って、息が切れて、歩道沿いにある花壇のブロックの上に腰を下ろす。6月だというのに外は蒸し暑くて、汗だくで花壇に座り込んでいる僕を不思議そうに横目で見ながら、人々が通り過ぎて行く。

目を瞑って、荒い呼吸を整える。

『しんどくなったら台湾に来なよ、いいところに連れて行ってあげる』

僕はあの時の、春の雨が東屋のトタンを叩く音と、遠くの方にぼうっと浮かぶ桜と、まっすぐに僕を見つめるハルの目を思い出していた。

ハルに会いに行こう。そう決めた。


続く

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