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【短編小説】桜の見える部屋で

実家の2階にある私の部屋には大きな窓があって、その窓からは、隣の公園の外縁に植わっている桜の木が見えた。
子どものころ、私は毎年桜が咲く季節になると自分の部屋に小さなレジャーシートとお弁当を広げて、一人でお花見をした。その窓枠が切り取る外の世界のほとんどを、桜の花びらが埋め尽くしていて、その隙間からは、吸い込まれそうな春の空が見えた。公園の方からは家族や友人とお花見に来た人たちの楽しげな声が響いていたけれど、私は騒がしいのがあまり好きではなかったし、レジャーシートや身体にのぼってくる虫が嫌だったから、そこに混ざりたいとはあまり思わなかった。この窓から見える景色は私だけのもので、私はあの部屋でひっそりとひらく、自分だけの小さなお花見を気に入っていた。

「だから、小春さんみたいな人って、僕にとって理想の女性なんですよね」
ふいに名前を呼ばれ、ふっと意識が現実に引き戻される。ああ、またぼうっとしてしまった。
「え、そんな。ありがとうございます」
ずっと相手の話を聞いていたかのように、愛想よく微笑みながら返す。
マッチングアプリで出会ったこの奥山という男の口から出る言葉の半分くらいは、自分がいかに多くの友人をもっていて充実した生活を送っているか、という自慢話で、残りの半分は自分の理想の女性像についての話だった。4年ほど付き合っていた隼人と別れて、なんとなくマッチングアプリを初めてみたけれど、どうでもいいことばかりを軽快に排出し続けるこの男の口を見つめながら、貴重な休日の時間を無駄にしていることにため息が出そうになる。奥山が語る理想の女性像は、以前女性誌でみた「選ばれる女になるための10の掟」みたいな特集記事をそのまま音読しているかのようだった。理想の女性か。たしかに私は料理をするのが好きで、黒髪で、メイクは薄めだけど、腹が立ったら結構汚い言葉も使うし、ベッドシーツもあまりこまめに替えないし、周りにバレたら引かれてしまいそうな本だって読む。この男の目に映ってはいるのは私ではなくて、ほとんど自分の都合のいいように変換された、彼の頭の中にしか存在しない、私の顔をした不気味なお人形なのだ。すでに2度目のデートをすることは無いなと思っていたので、特にこの男が私のことをどう思おうがどうでもいい。とはいえ変にトラブルになってこれ以上消耗するのもいやなので、相手が期待しているであろう言葉を機械のように淡々と返す。
いつからだろう、他人が期待するような自分をこんなにうまく演じられるようになったのは。小学生のころから、周りの子とは興味を持っているものが少し違っていることは自覚していた。でも、自分が興味があることを素直に言うと、「何それ、変なの」「怖い」と言われてしまった。相手が期待する自分を即座に把握して、擬態する術を身に着けたのは、自分の小さな大切な部屋に、土足で踏み入ろうとする人間を遠ざけるためだったように思う。

「小春さんみたいな人、会ったことないです」
奥山は必要以上に白い歯を見せながら、また歯の浮くようなセリフを言っている
そういえば、隼人も付き合いだした当初、そんなことを言っていたような気がする。まだ若いというより幼かった私は、その言葉に素直に喜んだと思う。
それから4年が経ち、別れ話になったとき、隼人は「前はそんな風じゃなかった」と言った。隼人の言葉に、私は「そうかもね」とだけ返した。私、本当はずっと「そんな風」だったのだけれど、と思いながらも、そんなことを言ってもしょうがないのも重々わかっていたからだ。そして、その言葉を聞いて私は隼人と別れることを決めたのだった。

「そんな、私みたいな人どこにでもいます。でも、ありがとうございます」

また、奥山が期待しているであろう謙虚な女性を演じる。

「あれ、その本なんですか?」

奥山の視線の先には、ソファにもたれさせたバッグから、カフェに来る前に図書館で借りたジョルジュ・バタイユの「エロティシズム」の黒い背表紙がのぞいていた。
「あ、いえこれは」
まずい、黒髪清楚で料理上手な女が好きな人間に、東南アジアの生贄の儀式やマルキ・ド・サドの話なんてしたら失神してしまうかもしれない。
「これは…その…お料理の本で」
「はあ、そうなんですね、やっぱり女性らしくて素敵ですね。なんか分厚い本なので哲学書とかだったらどうしようって思っちゃいました」
奥山はまた、白すぎる歯を見せて笑った。
「どうしようって」なんだよ。私は「そんな風」で「どうしようもない」人間なのかよ。だけど、わかっている。男が好きなのは、上品だけれど、小難しいことを言わない、自分より少し賢くない女なのだ。

目をぎゅっと閉じる。
がさがさ。
私の小さなレジャーシート。
ぐちゃ。
私の小さなお弁当。
隼人の手が、奥山の足が、私のささやかなお花見を、台無しにしていく。やめて、と叫ぶ代わりに、目をあけて目の前に座っている男をにらみつける。

だけど、そこにいたのは奥山ではなかった。奥山と同じ高そうなスーツと腕時計を身に着けた、顔のない人間だった。その、のっぺりとした顔はぎゅるると醜く歪んだかと思うと、隼人の顔になり、つぎに子供のころの友人の顔になり、そして最後に、私の顔になった。
ぐっと喉の奥が詰まる。息ができない。目の前の私は、睨むでもなく、嗤うでもなく、ただ私を見ている。その無機質で奥の見えない瞳の黒が私の意識を少しずつ吸い込んでゆく。

このまま飲み込まれて、ぐにゃりと歪んで溶けてしまうのもそれはそれで心地良いようにも思えた。しっかりと立って体重を支え続けるのは疲れるから。

「...さん」

でも、あの部屋にひとり

「...春さん」

小さい私を置いて?

「小春さん、どうしたんですか?」

奥山の声にはっとする。ブラックホールに吸い込まれかけていた私の意識が再び昼間のカフェに引き戻される。

目の前にあるのは、奥山の日焼けして、てかてかした顔だ。突然黙り込み、自分の顔を凝視する女を、訝しむような顔。

「これは…これは料理の本なんかじゃありません」

突然それだけぽつりと言ってまた黙ってしまった私に、奥山は戸惑っているようだった。

「ごめんなさい、今日は帰ります」

私はぽかんとしている奥田を置いて席を立ち、店をあとにした。

外はまだ少し肌寒いけれど、春の空はきれいに晴れ渡っていた。
駅までは少し回り道をして、川沿いの防波堤を歩くことにした。川沿いには桜の木が植わっていて、枝先では開きかけの蕾がうたたねをしている。
私はゆっくりと散歩をしながら、なんとなく、今週末実家に帰ろうかな、と考えた。

きっと私が帰る頃、ちょうどあの部屋の大きな窓は、桜の花びらでいっぱいになる。


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