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人の「市場価値」

個人がスキルアップしたり、仕事で経験を積んだりすることについて「市場価値を高める」という言い方をすることがある。転職サイトの広告とかビジネス書でよく見かける表現だ。

ここで言う市場価値というのは、要は年収のことだろう。
雇用されることを、労働市場で「買われる」ことだと考えると、わかりやすい表現ではあると思う。

ただ、「もっとスキルアップして自分の市場価値を高めていきたいと思います!」みたいなことを曇りなき眼で言っている人を見ると「一旦落ち着こうや」と言いたくなる。年収を高めるのはもちろん結構なことなのだけれど、人間に対して「市場価値」という言葉を使うことに対してなんの躊躇いもない人を見るとちょっと怖さを感じてしまうのだ。


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いや、もちろん「市場価値」という言葉を使う人だって、労働市場における価値に限定して言っているのであって、人間そのものに対して使っているわけではないだろう。

だけど、言葉というのは繰り返し使っていると、元々の意図を離れて、その言葉自体が力を持って、自分の思考に影響を与えてしまうことがある。だから「市場価値」という言葉を自分や他人に向け続けることは(大体の人は自分に向けるのだけど)結構危険で、それが呪いみたいに作用する時が必ず来ると思う。

というのは、僕自身がそうだったからだ。僕も「市場価値」という言葉を使っていた時期がある。1年半前、転職活動をしていた時期だ。シンプルでわかりやすい考え方だったというのもあるし、そういうシビアな目線を自分自身に向けることが、その時は必要なことに思えた。

でも、転職したそのあとも、「市場価値」的な世界観というのはなんとなくずっと残っていて、それによって、自分自身が少しずつ疲弊していくのを感じた。
自分が熱中できると思って始めた仕事だったはずなのに一生懸命働いている自分が急に滑稽に思えることもあった。これは、この言葉が自分に対して呪いみたいに作用したということなのだと思う。


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この「市場価値」という言葉が生きている世界はめちゃくちゃシンプルでわかりやすいのだけれど、その分いろいろなものを取りこぼしていると思う。そしてなにより寂しい。寂しすぎるので、そんな場所では生きられんなと思う。


それにしても、もう30代になったのだけど、いまだに「働く」ということについて自分なりの軸みたいなものができない。前職ではずっとモヤモヤしていて、転職して、きれいにモヤが晴れたと思ったのだけれど、1年半経って、また「働く」ということについてぐるぐると考え始めてしまっている。自分の頭だけで考えていてもだめだし、借りものの理屈だけでも、どうにも出口がないように思う。これはやっぱり、かなり腰を据えて「働く」ということについて考えなければなるまいと思っている。


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そんなことを考えていたら日曜日の午後が終わった。
このままでは「私は何のために働くのか」とかいうデカすぎるし抽象的すぎる問いを抱えながら月曜日を迎えてしまう。それはマズい気がする。今日のところはこれくらいにして、ビール飲みながらクレヨンしんちゃんの映画でも観よう。



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