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死別による不在とその代替品について 2/2

 前半では、『かくう生物のラブソング』における生還者たちとしてのゾンビと日常のパロディを送る人々の様子を確認しつつ、実際に近親者が亡くなった際に個人的に抱いた、「死者がいつでも、何度でも知っていたままに自分の中に再生される」ために感じる身近さを吐露してきた。

 この2つのことから見えてくるのが、以下のようなことではないだろうか。

 生きていた者は既に死んでいて、そこにいないのに、まだいるかのように振る舞うというというのはゾンビと共生するほど異常な見た目ではなくとも、いつでも繰り返されてきたことだ、ということである。

 というのも、昨日までそこに居た身近な対象がすっかり「居なくなる」ことは、隣にいた者の心情としてはほとんどありえないからである。それは対象が人間でなく動物でも、あるいは慣れ親しんだ風景や目に見えない制度のようなもの、習慣や技術のようなものでもそうではないだろうか。感染症のために授業が遠隔で行われても、そこに話者や聞き手の「顔」が必要などというのは、対面式の授業が一般化的であったことの名残りであるように思えるのだが、例えばそういった「経緯」のようなものとして、かつてあったものは、全く消えてなくなるのではない。

 だから、不気味ではあるけれども、実害がなければ安心してゾンビと暮せば良い。ゾンビ化していないのであれば、かつてあった対象の様子をありありと思い浮かべながら、そのことを自分の中にとっておいて何度でも再生しながら過ごせばよいだろう。なぜなら、今不在の彼らは、初めから居なかったことになったのではないからである。居た時のことをとっておいて、居るかのように振る舞ってみるなんていうことも、日常にありふれている。

 そもそも、「日常」だと考えられていたようなもの自体が、それらしいもののパロディーでしかない。きっと自粛ムードが明けて、多くの人が集まることがこの先あったら、よりいっそうそう思うのではないだろうか。こんな風に知っている人々と顔をあわせて会うなんて、まるで、COVID-19を知らなかったときの自分たちの演劇のようではないか、と。

 異常なことと日常の間には日常のパロディーが橋のようにかかっている。どちらも作り物のような、現実ではないかのような感触を持っている。でも、ともかく自分が生きている間はどちらにもだんだんと慣れていく。忘れてしまうこともきっとたくさんあるけど、新しく慣れる対象にもどんどん出会っていく。そのことは「ふつー」であるかどうかという判断の対象ですらない。



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