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医学に復讐を誓った男が外科医になる話

初章 消毒の香りと回りだす歯車

その病院はいつも消毒薬の香りがする場所だった。今でも手指消毒薬の種類によっては、その病院を思い出す。

小学校5年生の誕生日前、父が入院すると言った。癌だった。いつも平日夜中まで、土日も仕事に行く父が病気とは到底信じられなかった。そして癌が何かも良くわからない。手術すれば治るということだった。

現在では癌と言えば、場所によっては5年生存率が極端に低く、またStageが進めば進行癌となり、手術が根治療法(完全治癒を目指す方法)とならず、放射線や化学療法(抗がん剤)での姑息的治療(治癒ではなくがんと付き合いながら生きていく選択肢)となる。父の進行度では手術は不適切だったかもしれない。(これは父のカルテをまだ読んでいないので分からない)だが、医療家系でもなければ知識も全くない小学生にはお医者さんに診てもらえば何となく良くなると信じてやまなかった。

手術当日は小学校に普通通りいくよう母に言われた。帰宅し、あらかじめ作ってあったご飯をレンジでチンして食べ、TVゲームをしていた。でも何か胸の奥が冷たいような嫌な気配は感じ取っていた。夜10時頃、母から電話で「お父さんの心臓が一度止まった」と伝えられ、すぐに病院に向かった。

人工呼吸器に繋がれた父。泣きながら私に説明する母。隣で申し訳なさそうに謝罪をする外科医。もう父は戻らない?という気持ちとどうにかなって欲しい!と思う気持ちで大混乱した。父は肝臓の手術をしたが、帰室後に心肺停止状態になっていることに母が気付き、蘇生されたらしい。しかし蘇生後は低酸素状態が続いたことによる脳死状態であり、肺炎、腎不全とガタガタと下っていき、気管切開や透析まで行ったが、手術から2週間あまりで亡くなった。

死ぬまでは学校を休んで近くの民宿に泊まり、毎日病院に行った。しかし小学生のお父さん大好きっ子が2週間で父にサヨナラを言うほど割り切れることは無く、心拍数と血圧が下がり始めた時は一生で一番泣いた。モニターのアラームの音が怖くて、トイレに逃げ込んで吐いていた。戻るのが怖くて廊下にいるとたまたま見舞いに来ていた父の同僚が早くお父さんにところに戻ろうと促してくれた。手術の数日前に病院を抜け出して当時私がハマりかけていた釣り用具を買って誕生日に病室でプレゼントしてくれた父が、いま様々な管に繋がれて話すどころか身動きもせずに死のうとしている。それは幼子の人生において最も衝撃が強かった。

肝臓を切り過ぎたことが原因と担当医に言われた。肝臓という臓器は再生する臓器で、7割切除しても切った後に残った肝臓がもともとの8割ほどまでは肥大する。もちろん肝臓の状態によるわけだが、今回は少なくとも手術関連死亡であることは間違いなかった。主治医は肝臓手術で全国3本の指に入る名医にお願いしたと言われたが、もうそんなことはどうでもよい。誰が手術したって父が急死したことに変わりはないし、もう戻ってはこない。なぜ自分の父親が?という疑問がその後の家族の様子を見て何度も出てきたが、それも考えても仕方ないと早々に割り切った。問題はこの家族の悲しみの惨状をどうやって解決するかだ。父の葬儀が終わるまでにほぼ結論は出ていた。

他人に任せておけないなら、自分が医師になって治してやる

家族を失う悲しみは自分で十分だ。家族を悲しませない外科医になってやる

この感情は今振り返っても、不思議と主治医への復讐心ではなかった。父親を助けられなかった現状の医療が許せないという純粋な学問への恨みである。

小さな小さな、誰にも期待されない歯車が微かに回り始めた。


次章:米国で見た移植手術と本当の敵!

(気が向いたら、頑張って書きます)

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