役に立つということ
私は大学院の博士課程に進学する予定だった。しかし、間際になって取りやめた。
理由は、やっていた研究が社会の役に立つということがイメージできなかったからだ。
その時期に自分の内面から湧き上がってきた衝動は「役に立ちたい」「感謝されたい」だった。
この記事は「役に立つ」を掘り下げて私なりの考えを記そうと思う。
人には色々なタイプがあると思うが、極端に言えば、皆、何かしら社会の役に立ちたい願望はあると思っている。感謝し感謝されることは自己肯定感を高めるのに有効だ。人間は社会性の動物である。何かしらの形で社会と関わるのを求める。その時に社会とポジティブに関わるのが「役に立つ」ということだと思う。
さて、ここで「役に立つ」に社会的インパクトと時間軸を取り入れてみよう。
一発の大きなインパクトを望む人もいるだろう。それよりも小さいインパクトをたくさん欲しい人もいるだろう。
「役に立つ」のが判るまで時間が掛かっても根気強くやり続けれる人もいるだろう。「役に立つ」と判っている事だけやりたい人もいるだろう。
「役に立つ」には、領域(だれにや、どこでなど)という考え方も追加する必要があるだろう。
職場の人たちやお客様、困っている人、見知らぬ未来の子供たち。さまざまだ。
私の場合は、領域は「日本の子供たちに」である。
この「日本の子供たちに」に「役に立ちたい」はいつか叶うといいなぁと思っている。
今は「勤め先の人たち」に「役に立ちたい」。
さらには職能も考える必要がある。
私の場合は、「プログラミング」である。
ここまで書いて思うのが、「働く」ということが「役に立つ」ということと繋がっていることが分かる。
働くことで役に立ち、社会と繋がっていく。
まぁ、現実社会はこんな風には回っていないが…。
統合失調症の患者で考えてみても、みんながみんな社会で働いているわけではない。働けないひともたくさんいる。では、その人たちの「役に立つ」は叶わないのか?残酷な話だが、その人たちの望む形では叶わないかもしれない。
しかし、「働く」が「役に立つ」に繋がっているが、「役に立つ」=「働く」では無い。
「役に立つ」方法はさまざまである。喜んでくれる人が一人でも居れば「役に立つ」のである。
望むインパクトは得られないかもしれないが、それでも「役に立つ」のである。
合理主義と資本主義が混ざり合わさるとお金にならないものは「役に立たない」と勘違いされるかもしれないが、大事なことはお金じゃない。
お金は価値を計り、交換するのに便利な道具である。
一人ひとりの人間が必要とし、必要とされる社会がこれからの時代には必要だ。
そのためには、一人ひとりがお金を超えた価値を見出していく必要があるだろう。
私は研究を辞める決断をした時、「役に立つ」人間になりたかった。病気になった今、健やかに暮らす事で喜ばれる人間になった。目の前の小さな課題を少しづつ解決していくことで喜ばれる人間になった。
自分に適した「役に立つ」を探してみてはいかがだろうか。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
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