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ボヘミアン・ラプソディ〜解放されず放浪する人〜

■映画ボヘミアンラプソディ


僕の友人の何人かは、僕と同じような『サブカル中年ネッチョリおじさん』だったりするんです。やっぱり、映画とか音楽とか漫画とか好きだったりして、漫画ソムリエなんていう新しい職業作っちゃった奴もいて、それはそれで面白かったりするんですが、やっぱりそれぞれ得て不得手があって、中には映画は大好きだけど洋楽ロックは全く聴きませんという奴もいたりします。
2018年の秋、その映画好きでロックはからきしの友人からこんなLINEが入ったんです。「明日、ボヘミアンラプソディ(公開初日)を観に行こうと思っているんだが、Queen聴いたことないんだけど楽しめるかな?」僕はこう返しました。「クロマティ高校のフレディ知ってるんなら大丈夫」(お分かりになりますか?)

結論、40過ぎたオッサンが泣いたそうです。
Queenの曲と知らずとも、聴いたことある曲がいっぱい出てきて、あぁ、これもQueenだったのかと、フレディ・マーキュリーってちょっと変態的な人だと思っていたけど、凄い人だったんだね、とLINEが入っていました。

ん?
その時点で映画を観ていなかった僕は彼の最後の言葉がとても引っかかりました。
ボヘミアン・ラプソディってそういう映画なの?と
それで、僕もその週末に映画ボヘミアンラプソディを観たのですが
確かに、映画としてはもの凄く良くできていて、物語の伏線と回収が2時間の映画の中に綺麗に収まっており、例えばQueenのことを知らなくても、ロック音楽のことを知らなくても、ゲイのセクシャリティに理解がなくても、共感できるし、感情移入もできるし、物語だけでなく映画の中で奏でられるロック音楽やライブに感動することもできるように作られていて、むしろ『僕なりのQueen、僕なりのフレディ・マーキュリー』がなかったら、人生屈指の映画になっていたんじゃないだろうか、と思うくらいよくできた映画だと思ったのです。

■僕なりのフレディ・マーキュリー


Queenというバンドとの出会いについてはまた別の回にお話しするとして、
80年代の前半フレディ・マーキュリーがどんな人なのかは計り知ることはありませんでした。当時の雑誌のインタビューやほんとたまに観るインタビュー映像なんかで雰囲気を感じ取る程度のものです。
なので、現代のように溢れんばかりの情報を得ることができるだけでなく、アーティスト自らがオンタイムで情報が発信されている現代において知ることができる人物像とは全く異なっている大前提があるのですが、アーティストというのはどこか神秘のヴェールに包まれた存在であり、ファンにとってはいくらでも神格化できる存在であり、その分、多種多様な人物像というものが出来上がっていたのではないかと思います。
そんな中で、僕なりのフレディ・マーキュリーというのも時間をかけて出来上がっている訳です。
僕の中のフレディ・マーキュリーはロックやその他の音楽をそして芸術を愛し、頭がよく、賑やかで享楽的なことが好きな反面、もの凄く繊細でシャイな人です。
なので、自分の作った曲で大観衆を扇動することが大好きなのですが、自分の容姿や出自やセクシャリティと結構色々とそれも強烈なコンプレックスを抱えているように見えるのです。やはりそれは誰もが知るところで間違いないのでしょう。
そしてそのコンプレクスをある時は覆い隠し、ある時は嘲笑し、ある時は優しく共存する存在がフレディ・マーキュリーなんだという風に感じていました。
フレディは誰がどう観たって少し滑稽で可笑しいところがあります。
ヒラヒラの白いプリーツが袖についたドレスのような衣装も胸がバッカリと開いたバレエダンサーのようなタイツだったり、股間もあらわになろうかというくらい短いショートパンツにサスペンダーのみで靴すら履かずにステージに立ったり、それはもう誰が観たっておかしくて、滑稽でしかないのだけれど、もちろんフレディ本人だってどこかで自分を笑っていながらも、そこには独特の美的な意識があって、誰も真似できない、唯一無二の崇高なものがあって、ゆえに目が離せなく成るというか、ゆえに多くの人から愛されたのだと思うのです。

■映画の中のフレディ・マーキュリー


冒頭の僕の友人が、Queenを聴いたことがなくて、フレディを知らなくても、感動し、涙するほど、映画ボヘミアン・ラプソディは良い映画でした。それ故、実際のQueen の活動の歴史とは異なる演出がされていて、フレディもドラマの主役としてのステレオタイプとして描かれているように感じます。
もっと、滑稽で愛らしく、毒々しくも目が離せない、そんなフレディを描いて欲しかった、そんな気もするのです。フレディのキャストについては紆余曲折あったようですが、一時はペルシャ系の血をひくコメディアンが演じることが決まっていたようです。そういうコメディ的な雰囲気も良かったのではないかと思ったりもするのです。

■QueenのクレストTシャツ


意外とQueenのTシャツは持っていなくて、これは2005年のポール・ロジャースと組んだ時のツアーTシャツで1975年のツアーTシャツの紋章(Crest)がプリントされたものを模したもののようです。1975年のプリントは黄色ですが2005年のものはシルバーのキラキラしたプリントで気に入ってます。

■エピローグ


映画ボヘミアンラプソディではファルーク・バルサラが自らをフレディ・マーキュリーと名付けた本当の自分に成る、本当の自分を解放する物語として描かれていますが、『僕の中のフレディ・マーキュリー』はフレディ・マーキュリーという虚像を作り上げ、それを楽しみ、それを愛することで、本当の自分を最後まで自分だけのものにして終えた人なのです。そういう人だったと僕は思うのです。フレディ・マーキュリーのショウは続くけど、ファルーク・バルサラは死んでそれはやっぱり最後まで見せないよ
そう言って、ファルーク・バルサラはひっそりと消え、どこに埋葬されているかすら人に見せることはなかったのです。
フレディ・マーキュリーの中にいたファルーク・バルサラという人間自体はついぞ解放されず、フレディ・マーキュリーという大きな虚像の中で、ボヘミアンのように放浪しているのだとしたらどうでしょう?ボヘミアン・ラプソディという謎の歌詞の曲もまた一つ異なった聴き方ができたりするかもしれません。

今回は映画ボヘミアン・ラプソディとフレディ・マーキュリーのお話しが中心になりましたが、皆さんは映画ボヘミアンラプソディをどうご覧になったでしょうか?Queenのファンの方はどうご覧になったのでしょうか?

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■おまけ

『ボヘミアン・ラプソディ』がヒットしたこともあって、ミュージッシャンの伝記映画の企画は数々あるようです。エルトン・ジョンの『ロケット・マン』は映画化されましたし、モトリー・クルーはNetflexのオリジナル・ムービーとして配信されたりしました。
そんなミュージシャンの伝記映画の中で是非とも観ていただきたいと思うのが、セルジュ・ゲンズブールの伝記映画です。
ボヘミアンラプソディのようにセルジュやバルドー、幼いシャルロットなど本人かと思うくらいそっくり(バーキンがちょっと残念なんですが)、でセルジュの曲の使われ方演出も素晴らしいだけでなく、フレディと同じく、コンプレックスを多く抱えた、ちょっとぶっ飛んだ人間が孤高のアーティストとして、もの凄く雰囲気たっぷりに描かれていて、もの凄く面白かったです。
「初めて書いたラブソングだ」と言って「ジュテーム・モア・ノン・プリュ」の一節をピアノで弾くところなど、ゾクッとしました。
セルジュの曲を聴いたことがない人であっても、セルジュとその曲に興味が湧くのではないかと思う映画です。


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