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story 月夜〜追記・千編〜

初めは僅かな違和感だった
夕暮れ時になると体が重く
ひどく疲れを感じた
それから時折り
咳き込むようになった
風邪でもひいたか…
そう思い
薬湯を飲み早めに休むと
翌日には和らいだ
そんな具合がしばらく
続いたある日
吐血した
千は長からの命で
隣国の動きを探っていた
戦さになるかもしれなかった
その日は里へ戻ったのが
とおに夜半を過ぎていた
露が降り冷える
また体がひどく重かった
戸口の側まで来た時
咳き込んだ
胸元に生暖かいものが
突き上げてくる
千は膝から崩れ落ちるように
地面に倒れ込んだ
かろうじて手をついたものの
口から血が溢れた
全身の力が抜け
意識が遠のいてゆく
外の物音に気が付き駆けつけた
妹の千夜の呼ぶ声は
もう聞こえなかった

薬師の話しなど聞かずとも
それが労咳であることは分かった
千夜は千を介抱すると
すぐに長に知らせた
千はそのまま床についていた
長はわざわざ足を運び見舞った
任は解く
気を強く持て…
長にしては
暖かい言葉だった
自ら煎じた薬を置いていった

千は熱で潤む目で
天井を見つめている
あの日…
務めの最中でなくて良かった…
だか安堵の後に
あたりようのない思いが
わいてくる
珍しく感情が乱れている
なぜだ…
なぜ今なのだ…
千は忍びの仕事に
誇りを持っていた
里で一番の優れものと言われながら
戦で命を落とした父を
超えることだけを考えて励んできた
今まさに
忍びとして盛りを迎えようとしている
思いとは裏腹に
力を削がれてゆく身体が
もどかしかった

千夜は腹違いの妹だった
千の母は幼い頃病で亡くなった
今思えば労咳だったのかもしれない
千が九つの時
千夜が生まれた
千夜は小柄だが明るく
千の姿を見ると
兄様!と
いつも慕って駆け寄って来た
千夜を産んだ母は
千とはあまり語ろうとせず
距離を置いた
他人だった
千夜は千が床に着くと
甲斐甲斐しく看病した
咳き込む音が聞こえれば
すぐに傍へ寄り
吐血すれば
その血を拭き取り
吐いた壺を洗った
初め千は千夜に近づかぬよう
強く言ったが聞かなかった
私はこう見えて丈夫なのです
ご心配なさらずよくお休みください
そう言って微笑んだ
木漏れ日のような千夜の顔が
千のこころを和ませた
独り身を通していた千にとって
頼れる者と言えば千夜だけだった

十日程経ち幾分身体が楽になった
長の煎じ薬が効いているのか…
外は落葉が始まっている
午後の陽が縁側に
陽だまりを作っている
千はゆっくりと身体を起こした
幼馴染の左伊が去ってから
胸の内を話す相手もいなくなった
どこか空虚な風が心の中に吹いていた
そういえば
近頃歌も詠んでいない…
千は筆と紙を傍へ置き
縁側へ座った
季節は冬へと向かっている
澄んだ空気が喉を通り肺へと滲みる
僅かに咳き込んだ
兄様…
近くにいたのか
千夜が傍へ来た
起きていて良いのですか…
そう言いながら
千の肩に羽織をかけた 
あれから千夜は
千に付ききりで看病している
疲れが溜まっているだろう
千夜…
振り返ろうとすると
千夜は千の背中に
もたれるようにした
そうして顔を押し付けたまま
じっとしている
言葉にしたところで
届くはずもない気持ちが
千夜の中にあった
兄様…
千夜は小さな声で言った
幼かった妹は
気づけば
気立ての良い娘になっていた
たったひとりの
愛おしい妹だった

疲れたろう… 
千夜の方を向くと
千夜はかぶりを振りながら
子猫のように千の腕の中へ入った
幼い頃もそうしたように
千は千夜の柔らかな黒髪を撫でた
千夜は私の愛しい妹だ
これからも変わらない
だが…
私は長くない…
千ははっきりと言った
日を追う毎に
病が身体を蝕んでいくのが分かる
千夜にはまだこの先があろう…
心の在りようひとつで
いかようにも生きることができる
私に囚われずに生きて欲しい…
千夜は千の腕の中で
その静かな声を聴いている
千の穏やかな眼差しが
千夜の萌える心を
宥めるように見つめた

午後の陽は次第に傾き
薄暗い影を落とし始めた
冷えた空気が刺さるように肺入った
千は千夜から顔を隠すように背けると
咳き込んだ
兄様…
ごめんなさい
休みましょう
軒先にある紅梅が
ふと千の目に入った
この花が咲くのを
私は見ずに逝くだろう…

霜が降り小雪がちらつくようになると
千はいよいよ起きられなくなった
いっそ命を絶ってしまおうか…
自ら逝くことなど
千にとって造作もないことだった
だが…
それをすれば千夜が悲しむ
千夜が前を向いて生きていけるように
自分も命の限り生きねばならない
その想いが千を貫くように支えていた

霜月の空に
蒴を迎えようとしている
月が浮かんでいる
夜半に千は大量に血を吐いた
千夜と長が枕元に寄った
絶え絶えになる息を継ぎながら
千は微かに目を開き
僅かな命を振り絞るように
声を出した
病を得て…
私は初めて…己の意志で
生きることを知った…
この里に生まれて…良かった…
長の方を向くと
千夜を頼みます…
と言って笑って見せた
そらから千夜の方を向くと
細くなった腕を伸ばし
千夜の頬に触れた
千夜のおかげだ…
千夜は千の手を握ったまま頷いた
声にならない
涙が溢れて止まらなかった
穏やかな目が静かに閉じられていく
よく生きよ…
そう言って
息を引き取った

左伊が千の最期を知ったのは
紅梅の花が咲き始めた頃だった
俄かには信じられなかった
いつもと変わらぬ涼しい顔で
ふと現れるような気がした

左伊が里を離れる時に
見送ってくれた姿が
瞼の裏に浮かぶ
兄のような
かけがえのない友だった

青い空を
一羽の白い鳥が
ひと声高く上げて
飛んでいった



ことばはこころ。枝先の葉や花は移り変わってゆくけれど、その幹は空へ向かい、その根は大地に深く伸びてゆく。水が巡り風が吹く。陰と光の中で様々ないのちが共に生き始める。移ろいと安らぎのことばの世界。その記録。