見出し画像

心が豊かになるヴェーダの教え②DharmaとAntaḥkaraṇa śuddhi

様々な意味を持つDharma という言葉は、達摩大師=だるまさんにも使われているので、日本人にも馴染みが深いのではないでしょうか?

達摩大師
बोधिधर्म, bodhidharma
中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧

Dharmaはサンスクリット語で自然の摂理・法則、正義、役割、善徳、善行などと様々な意味で使われる言葉です。ヴェーダ聖典の中ではまず最初に教えられるのがこのDharmaで、ヴェーダの文化と生活の中心となり、最終のゴールであるモークシャを得るためのガイドとなるのがこのDharmaです。ヴェーダとヴェーダーンタの学びにはこの様々な意味を持つDharmaの正しい理解と、Dharmaに沿ったライフスタイルが必ず必要だと教えられています。

ではそのようなDharmaを学ぶことにより、私たちにどのような変化が起こるのでしょうか?

Dharmaの必要性

私たちが生活をするこの自然界の中で、唯一人間のみが自由意思を持っています。自由意思があるので、様々な状況で物事を選択して行動に移すことが出来ます。自然界の植物や動物全ては自由意思を持たず、自然の摂理の中であるがまま生きています。

人間には自由意思があるので、自然の摂理やその調和を保つ選択をして努力をする事が出来ますが、一方、自分の私利私欲を叶えるために自由意思を乱用して、調和を乱すこともできます。

人間が私利私欲を満たすための生活をしていると、どのような状況を引き起こすのでしょうか?自然界が破壊され、資源が枯渇し、人々の生活にも貧富の差が出て、最終的には個人の精神面にも支障をきたしてしまいます。現代社会の現状そのものです。

自分の私利私欲を満たすために、好き・嫌いを基準に生活をしてしまうのは、自由意思を持つ人間にとっては当たり前のように見えますが、最終的に自分の首を自分で絞めることになるのであれば、改善策が必要です。

そこでの教えがDharmaです。

自分の好き・嫌いを基準にして、好きなことをしていかに嫌いなことをしないか、それを満たすことが「自由に生きる」事として重要視され、そこに価値を置く潮流が今の社会にはあります。

ヴェーダの教えでは、好きなことをしていかに嫌いなことをしないか、という生き方は、自分の好きと嫌い(rāga dveṣa)に束縛をされている状態なので、本当の自由ではないと教えます。

本当の自由とは、自分の中で自分自身をコントロールするそれらの好きと嫌い(rāga dveṣa)から自由になることだとヴェーダは教えます。

人の欲望には限りがなく、欲しかったものを得たら別のものが欲しくなったり、状況が変わったら今まで欲しかったものが不要になり、それから逃げたくなる、などの状況があります。

あれだけ好きだった人と結婚して、十年、二十年、もしかしたら三十年ぐらいしたら一緒に居たくなる、という話は良く効きます。人も状況も変わるので、仕方のない事なのでしょうが、欲望や好きと嫌い(rāga dveṣa)に振り回されているマインドは落ち着きを得ることが出来ず、そこには長続きする満足感や幸福感はありません。

好きと嫌い(rāga dveṣa)に振り回される状況から自由になるにはどうしたら様のでしょうか?

好きと嫌い(rāga dveṣa)を物事を行う基準としないで、Dharmaを基準とすることがヴェーダでは教えられています。

生きるための基準としてのDharma

ヴェーダの聖典であるBhagavad Gītāの始まりは以下の節で始まります。
धर्मक्षेत्रे कुरुक्षेत्रे समवेता युयुत्सवः।
मामकाः पाण्डवाश्चैव किमकुरुवत सञ्ज्यय॥
dharmakṣetre kurukṣetre samavetā yuyutsavaḥ|
māmakāḥ pāṇḍavāścaiva kimakuruvata sañjyaya||

マハーバーラタの戦いで、弓の名手で無敵と言われたArjunaは自分の国を違法に乗っ取ろうとしている敵、Duryodhanaの軍と今まさに戦おうとしています。 Arjunaの軍隊はDharma(ここでの意味は正義)を守る軍であり、敵の軍は Adharma(正義の反対である悪行・国を乗っ取ろうとしているので)の象徴です。マハーバーラタの戦いはDharmaとAdharmaの戦いと呼ばれます。

kurukṣetraのモニュメント


しかし、そんな無敵で正義を守るために戦場に立ったArjunaでも、相手の軍に自分の敬愛するお爺さんや弓の先生がいることで、戦えなくなってしまいます。武士なのでDharmaを守ることが役割なのですが、戦いたくないという感情に押し流されて戦えなくなってしまい、自分の役割を放棄しようとします。

そこでの教えが、好きと嫌い(rāga dveṣa)に振り回されないでDharmaに沿った行い=正義を守り悪を成敗する、ということです。Arjunaにとっては戦場で闘う事ですが、私たちの日常生活に当てはめてみても、同じような葛藤があり、好き嫌いという感情に流されてしまい、その場における自分自身の役割を放棄してしまう、またはやるべきではないこと(adharma)をしてしまうことは多々あります。

ここでのDharmaは単に善行という意味だけではなく、その場における自分自身の役割を好き嫌いに流されないでやる事、という意味になります。

なぜ、その場における自分自身の役割を好き嫌い(rāga dveṣa)に流されないでやる事=Dharmaに沿って生きる事、が重要なのでしょうか?

四つの理由を挙げてみました。

一つ目:全てとの調和を保つため。

Arjunaは武士の身分なのでDharma(正義)を守る事が役割となります。物事が行われる状況で、やるべき人がやるべきことをやらないとこの社会が含まれるすべての自然世界は上手く機能しません。

例えば:リンゴの木が、赤い実をつけるのが飽きたから、みんなが大好きなマンゴーを実らせるようになったらどうなるでしょうか?また、会社の社長さんが、管理職に疲れたから掃除夫になってしまったらどうでなるでしょうか?

すべての生きとし生ける者には何かしらの役割があります。そして、自分の置かれている状況でやるべきことをする事で、全てとの調和に貢献をすることが出来るのです。

そのやるべき事は、好き嫌い(rāga dveṣa)に振り回されて、自分で正当化している自分にとって都合の良い職業や状態ではなく、なるべく多くの人のためになる役割です。

二つ目は自分の成長のため

自分の好きな事だけやって生きていける人生はとても恵まれています。しかし、そこには人として成長する機会があまりありません。

人としての成長は貢献者になっていく事です。自分の私利私欲ではなく、他人や社会の為に自分の能力や時間、お金などの持ち備えていることを使っていく事です。

なので、ヴェーダの文化では自分の思い通りに生活をすることに価値をおくのではなく、世のため人のために貢献をして生きていく事を人生に組み込んでいくのが良いとされます。そのため、結婚や子供を育てることが奨励されています。

ヴェーダの文化では結婚は好いた惚れたでするのではなく、自分の成長の為と、家系の子孫繁栄のためにします。そんな結婚生活で自分の好きなように生活が出来ないのは当たり前。そこで人として成長をする事が出来るのです。

結婚や子育てだけではなく、行いをする上で、自分のcomfort zoneを抜け出して、少し大変な思いをしても、なるべく多くの人や世のために貢献することを心がけると、人としての成長が出来ます。

三つ目:好き嫌いに振り回されないマインドを得るため

Dharmaに沿って生きる事が重要な理由の3つ目は、好き嫌いに振り回されないマインドを得るため、です。

先にも述べましたが、Dharmaを意識しなければ、通常人は自分の私利私欲を満たすことに価値観を持ち、それを最優先にした生き方をしがちです。その生き方の中では私たちは自分の好き嫌い(rāga dveṣa)に振り回されてしまうので、落ち着きのないマインドで落ち着きのない生活をする事になってしまいます。そこに心の平静はありません。

好き嫌い(rāga dveṣa)に振り回されず、自分自身の役割を理解したうえでやるべき事をしていると、好き嫌いに振り回されないマインドを得ることが出来ます。

その為にも、今まで基準にしていた好き嫌い(rāga dveṣa)からDharmaを行いの基準にする、というシフトをしていくと、好き嫌い(rāga dveṣa)に振り回されないマインドを手に入れることが出来ます。

好き嫌い(rāga dveṣa)に振り回されないマインドは浄化されたマインドとなり、物事を客観的に見ることができ、マインドの平静に繋がります。

このDharmaに沿った生き方が、マインドの平静ため、という点を理解するのは分かりづらく、沢山の人が以下で説明をするマインドの浄化であるantaḥkarana śuddhiを誤解していることが多々にあります。

それには、単に分かりづらい、という理由の他に、誰もが「やりたくないことはやりたくない」という強い意思を持っているからだと思います。

Bhagavad Gītāでも「モークシャを得るための知識にはantaḥkarana śuddhiが必要だから戦いなさい」、というArjunaへの教えはなかなか理解されず、18章に及ぶ700節で、その重要さが教えられているのです。

antaḥkaraṇa śuddhiとマインドの平静の関係性

antaḥkarana śuddhiとはantaḥ=内なる karaṇa=道具 śuddhi=浄化、という意味です。私たちが持つ内なる道具はマインドであり、それをきれいにするという意味を持つのが、antaḥkarana śuddhiです。

アーサナヨーガをしている人の多くが、プラーナーヤーマや瞑想、またはアーサナヨーガをしていればantaḥkarana śuddhiが出来ると勘違いしているようですが、antaḥkarana śuddhiはそんな生易しいものではありません。

確かにアーサナヨーガやプラーナーヤーマ、瞑想をすれば一時的にはすっきりとした心持ちになることが出来ますが、その心持ちをマットの外でも保つことが出来るのでしょうか?例えば:子どもが言う事を聞かない時、上司に叱られた時、人前で恥をかいた時などに。。。

一時的にすっきりとした心持になることは悪い事ではありませんが、日常生活で、その心持ちを持続することが出来ず、何時間もかけてアーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想をしてやっとすっきりするのでは、実社会で生活&貢献することは不効率で不可能の様に思えます。

上の状態を沢山の人が求めているので、いわゆるヨガなどで心の平静を追求しようとする人たちは社会の中に身を置くことが出来ないのではないでしょうか?

ヴェーダーンタの教えるantaḥkarana śuddhiは実生活を回避して得られるものではなく、実生活を活かし、且つ活用しながら得られるものです。

ですので、Swami Dayananda Sarasvati jiは常に、社会に身を置きなさい、と教えて下さっていました。antaḥkarana śuddhiはマットの上ではなく、実社会で得ることが出来るので。

実社会は会社でも、家庭でも、コミュニティーでも良いと思います。人と関わり、自分の好きな事だけではないことを否応なしにしなくてはいけない場所ならどこでも良いのです。

そこでは必然的に自分の好きな事だけをしていることは出来ません。「嫌だな」、と思う事から逃げないで、自分のするべきことをすることで、自分の好きと嫌いの束縛から自由になることが出来るのです。

上の状態でマインドで起こることの補足説明:
「嫌だな」、と思う事から逃げてしまうと自分の中の「嫌だな」、という感情の言いなりになり、ペットに餌をあげている状態になります。そうすると、更に言う事を聞かなくなり、わがままを言ってきて、自分がその「嫌だな」、という感情(ペット)に振り回されてしまいます。

一方、「嫌だな」と思う事から逃げないでするべきことをする、という自分の自由意思で出来る選択は、「嫌だな」、という感情に餌をあげていない状態です。しばらくは強い感情でコントロールをしてこようとしますが、言う事を聞かなければ、そのうち諦めて力を失っていきます。

それを繰り返していけば、好き・嫌いに振り回されることなく、心の平静を手に入れることが出来ます。感情に振り回されないで、客観的に自分の出来ることを見れている状態のマインドはとても落ち着いています。心の平静は幸福感に直結するので、どんな行いの結果よりも達成感を得ることが出来るのです。

嫌だと思ってやった行いがもし良くない結果を導いたとしても、心の平静は手に入れることが出来るので、そこに価値を見出すことが出来れば、行いの結果など、どうでもよくなってきます。

これがantaḥkarana śuddhiのために行いをする、カルマヨーガにつながります。

好きな事だけしていても心の平静は得られません。どこか不安で、ああしたい、こうしたい、に振り回わされ、じっとすわっていることもできないでしょう。じっと座っていることが出来ないと、心の平静は得ることが出来ないし、ましてやヴェーダーンタの勉強など無理です。

ヴェーダーンタの勉強にはantaḥkarana śuddhiが必須です。避けては通れなません。= 好きな事だけではなく嫌なことをきちんとやり、社会に身を置いて貢献をしなくてはいけない、のです。

なので、ヴェーダーンタの勉強はちょっとかじってなんとなく分かった感じになる人は多いですが、その重要な教えをきちんと理解できる人は少ないのです。なぜなら
やりたくないことをやらなくてはいけない、ので。
ヴェーダーンタが万人受けしないのも納得なのです。

よく、ヴェーダーンタの神髄である、「tattvam asiがいまいちよく分からないんです」、とか「dehātma bhuddhiが無くならないんです」、などと言ってくる人がいますが、まずはantaḥkarana śuddhiが出来る生活にシフトをして、全身全霊でantaḥkarana śuddhi=やりたくないことをちょっと無理してでもやる生活をお勧めします。

いろいろな価値観を持つ人たちが集まるのが社会。社会の中に身を置き、全てを受け入れ、やるべきことをやる事をしてみて下さい。
心の成長と平静、そして副産物でお給料までもらえてしまいます。

現在の日本では好きなことをして生きる事が価値観として尊重されていますが、それでは個人の成長にはならないし、何よりも日本の社会の未来が不安です。私利私欲にまみれて行動をする人達があふれれば、Dharmaは破壊され、全ての秩序の調和が乱れ、心を病む人が増えます。それが今の日本の状態なのではないでしょうか?

四つ目:好ましい環境や生活を手に入れることが出来る

Dharmaに沿って生きる事が重要な理由の4つ目は副産物としてですが、Dharmaに沿って生活をしているとプンニャ(善行による徳)を得ることが出来ます。このプンニャは自分にとって好ましい状況や環境を与えてくれます。

自分はついていない、何で自分はいつもこうなるんだろう、という人はこのプンニャが足りていないだけです。このプンニャは自分の自由意思で得ることが出来るので、どんどん稼いでいきましょう。

Dharmaが何か分からない

今の日本では、何をしていいのか分からない、という人、特に若者が増えていますが、人には必ずやるべき役割があります。

なぜそれが見えないのかというと、好き・嫌いに振り回されているからでしょう。

何の仕事をしたらいいのか分からない、という人。世の中には求人の広告は沢山出ています。しかし、自分の好き嫌いのふるいにかけ、応募をする前から、あれはだめ、これはだめ、と言っているのではないでしょうか?

求められている場所で自分が何か貢献できると知ること自体が自分の人としての成長につながり、自己肯定感を高めることが出来ます。まずは何でも良いので、社会に身を置いてみることが重要なのです。

働くこと以外の日常生活で何をしていいのか分からない人は先ずアヒンサー(非殺生)を心がけるのが良いと思います。

すべての生きとし生けるものに共通しているのは、危害を加えられたくない、という事です。
先ずは自分の価値感からでよいので、人にされて嫌なことは他人にもしない、という幼稚園でお友達と仲良くするときに教えられる、基本的な事を守ってみてはいかがでしょうか?

それがアヒンサー(非殺生)につながります。
まずはそこから。

ヴェーダの文化でヴェジタリアンが食生活の基本なのもアヒンサー(非殺生)=Dharmaに沿った生き方をするためです。

上にも述べたように、生きとし生けるものは全て殺されたくないのです。それを、おいしいから、という理由で他の生き物を傷つけるのは、まさに好き嫌いに振り回されてしまってDharmaから逸れてしまっている状態です。

人として持ち備えている自由意思を駆使して、食べるものをなるべく非暴力なものにしてく選択がヴェジタリアンです。

ですので、ヴェーダの文化ではヴェジタリアンが基本となるのです。

これもやりたくないことをしなくてはいけない内に入るのかもしれませんが、それが好き嫌い(rāga dveṣa)にコントロールされていない事の証なのです。

最後に

「やりたくないことをやらなくてはいけない」、となると誰も乗り気がしなくなってしまうと思いますが、その先には自分の好き嫌いから自由なマインドとモークシャという最高のゴールがある、という事に気が付ければ、突き進むことが出来るのではないでしょうか?

また、この投稿ではイーシュヴァラ(法則やすべてのモノ・現象として現れているすべての源)について触れていませんが、ヴェーダーンタが教えるイーシュヴァラが理解できると、社会に身を置いてantaḥkarana śuddhiをする事がやり易くなります。そこには、自分と全てが離れていないという安心感があり、リラックスしてするべきことをする事が出来るようになります。

イーシュヴァラの理解が無く、やりたくないことをしなくてはいけないのは精神的にきつくなってしまうかもしれません。Dharmaを基準とした選択基準にシフトができず、やりたくないことをやることがきつく感じでしまう人は、イーシュヴァラについての知識を身につけて頂ければ、と思います。

日本にもDharmaがきちんと浸透して、沢山の人が心の平静を得て、社会全体が調和を保つことが出来ますように、という願いを込めて。

そして、一人でも多くの人がantaḥkarana śuddhiに励み、ヴェーダーンタの教えを理解することが出来、最高のゴールと言われるモークシャを得ることが出来ますように。

2024年9月23日吉日
恩師 Pujya Swami Dayananda Sarasvati ji 9年忌 リシケーシにて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?