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愛はどう可視化するか

こんにちは
向田つばさです。
今日は私の恋愛観とそれを語るのに必要不可欠な人間関係についてお話ししたいと思います。

私は平成初期に貧しい家庭で生まれました。
実家では他の家庭にない様々なルールがありました。
私が家庭で教え込まれた常識はおおよそ世間の常識とはかけ離れたものだったので私は学校に
馴染めませんでしたが、それを気にしていたかどうかは分かりません。

一方で私の兄弟は両親に対して物おじせずに意見を言える人間でした。
私は小心者だったので兄弟の真似をして自分の意思をことができませんでした。
反論と取れる発言をしても家庭のルールを破っても両親にとって気に食わない行動や言動をしても叱責されました。
怒鳴られ、投げつけられれ、叩かれました。
それが怖くて泣けば怒号はエスカレートしたので私は泣かなくなったのかもしれません。

私は次第に全て自分が悪いからこうなるんだと思うようになりました。
自分の心の中で悪態をつくことすら出来なくなり、ただひたすら自分を責め、適応障害から始まりうつ状態を頻繁に繰り返すようになりました。

私には記憶をなくしてしまう障害の解離性障害の診断が降りていますが、発症したのは幼少期であると推測しています。
その障害のため幼少期から学童期の記憶はしっかりとしていませんが、その中でも私に長く続く友人関係がなかったことは確かだと思います。
学校の卒業を待たずとも、クラス替えを待たずとも、私の周りにいる人間は常に変わっていきました。
私は誰にも興味を示さなかったわけではありませんでしたが特定の人物に対して長い間好意を持ち続けたことはありません。
嫌われても縋りつこうと思えず、去る者は全く追わない。
興味を持って近づいても面白い本を読んでいる途中だとかたったそれだけの理由で一緒に話す気が失せることが多々あり、学期一つ分も続いた人間などおりませんでした。

私は今回歩に恋をして初めて一年という期間同じ人と一緒にいることになりました。
正確に言えば七年間同じ屋根の下で過ごした人間はいたのですが、記憶がなく、自分がどのような気持ちで一緒に暮らしていたのか思い出せません。

私も歩もひとりぼっちで過ごした学生時代は期間は違えどあります。
明確にいじめを受けていた歩に対して、私はいじめらしきものを受けたことはありますがこれに関しても記憶がほとんどありません。
実家での異様なしつけに限らず学校での壊滅的な人間関係を見ていたはずの周囲の人間は誰1人として私が普通でないことを教えてはくれませんでした。

養育歴を見ようにも私は両親と絶縁しているし、両親はついぞ自分らの異様さを認めませんんでしたので、私の実家の家庭環境がどのようなものだったのかわかる事はないでしょう。
学校関係者は入れ替わりが激しいですし私を知っている教師はいないし、生徒も何千人と見ているでしょうから覚えていないでしょうね。
兄弟が母校を訪ねるのに1人で行けないと言うことでついて行ったことがありますが、「誰お前」と言う目で見られました。兄弟はしっかりと覚えてもらっていたようで楽しそうに会話していたんじゃないかと思います。

私の人間に対する興味関心は薄っぺらく、飽きたら捨てるくらいの感覚で関係性を解消してきました。
そんな話をすると歩は「僕のことも飽きてしまうのか」と言いますが、多分それはないんじゃないかと思っています。


私は歩のためになることはするし、そのためなら自分の感情さえも左右しようと思えます。
通院先の病院は大きく私が不安を抱えた時はすぐに対応してくれるだろうと信頼しています。
私は困った時誰にも相談出来ませんでした。
両親は私が悩んでいても「いいから勉強しろ」としか言いませんでしたし、教師に相談しても親にバレれば怒られる。友人はいないの三拍子。
でも今の私には相談する相手がいます。
私と歩の当事者間の問題であっても、私は外部の人間に頼りたい。
そうまでしてでも関係を続かせたい。

歩のことを不安にさせたり、怒らせてしまったり、ろくな行動ができない日が続いていて、どうすれば良かったのか考えますが私はきっと今から学ぶしかないのです。
人間と一緒にいられなかった私は30という年齢で初めて対人交流を獲得しなければなりません。
職場の人間関係より難解で、失敗は許されないものですが、怖がって避けて通るわけにはいきません。
本気で好きだということを行動で示さなければ私は終わりです。
不快な思いはこの先もさせてしまうかもしれないけれど、私がどんなに人間関係を築き上げてきた人だったとしても歩と同じ人間なんて1人だっていないんです。だから歩と接する時、全てが新鮮なのは考えて見れば当たり前のことなんですよね。

私は確かに人間を知らないけれど、逆に言えば先入観が全くないということになります。
まっさらな状態で歩に接することができるのは欠点かもしれないけれど、私は長所だと捉えたい。
好きだという感情は幼稚園児でも否定されるべきではない感情です。
私と歩は性別が生まれ持ったものと違いますが、性別さえ気にならないのは私が恋愛観を知らないからかもしれません。
歩という恋人が多くの人間とどう違うのか私には言葉でうまく表現する事はできませんが、感じる気持ちと胸の鼓動で「好きはこれであっているはずだ」と確信します。
人間だって動物です。
恋愛学という学問がなくても私たちは恋をして子孫を残します。
だからきっと本能でいいんです。
理由を言葉にして伝えたいと思う事はありますが、それよりもずっと、胸の鼓動の方が根拠になるんじゃないかと思います。
近い将来、そういう言葉にするには繊細すぎる気持ちを可視化する機会が誕生するような気がします。

私は歩が好きです。
この人だ。と直感で思って、考えるよりも先に自殺しようとする歩を止めようとしました。
付き合っていたからではなく、それは交際するよりずっと前の話です。
自分の生活を捨ててでも、両親にそれがバレる可能性があっても、それで叱責されることが目に見えていても、それよりも歩を失うことが怖かった。
私は歩を苦しめるために結婚したのではありません。
幸せにするためだったらどんなに汚い手でも使います。
それで歩に不快な思いをさせる期間が減るのなら、私は努力します。

私は歩が好きです。
今までも
今も
これからも
ずっと先まで
墓に入っても
ずっと、ずっと、愛しています。

2023年11月7日
向田つばさ