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キリスト教を辞めた後に、どう生きるか

 ユダヤ教・イスラム教・キリスト教は、源流をおなじくする宗教ですが、その宗教を

「辞める」

という選択肢があるのは、もしかすると「キリスト教」だけかもしれません。

 もちろん、ユダヤ教の人が改宗したり、イスラム教の人が棄教したりすることは、世界においては「無いわけではない」とは思いますが、キリスト教を辞めることとは、すこし意味合いが違ったりします。

 それは一体どういうことか?と言うと、シンプルに説明すれば、「ユダヤ教やイスラム教」は、地域に根ざした民族性の高い宗教であるのに対して、

「キリスト教には、地域性や民族性がない(薄い)」

ものだからです。

 これは、こんな風に言い切ってしまうと、あらぬ誤解を生んだり、炎上を招くかもしれませんが、ユダヤ教というのは、中東の「イスラエル」という地域や、ユダヤ人という民族に由来する宗教ですから、血縁も地縁も無関係な、たとえば日本人が ”生まれながらに信仰している” 宗教ではありません。

 また、イスラム教もアラブ地方の地縁や、アラブ地方の民族という血縁に深く関わっており、たとえば、まったく無関係な日本人が生まれながらに信仰している宗教ではないのですね。

 さらに平たく言えば、ユダヤ教とイスラム教の神は、「中東に降臨して、中東の民を創造し、中東の民を救う」宗教ですから、まったく無関係な極東の日本人には、そもそも論で言えば縁もゆかりもないわけです。


 その意味では、キリスト教も、原理原則で言えば中東の神を信じていて、その中東の神に遣わされた中東の人であるイエス・キリストを信じる宗教ですから、本来は欧米人から見ても無関係です。

 欧米には欧米の神話があり、欧米の原初の歴史があるのにもかかわらず、なぜかローマ帝国のせいで、中東の宗教が広まってしまった、という現実があるということになります。

 イスラム教にもついても似たような地域があり、マレーシアやインドネシアは「中東と交易をしていた中世に、ムスリム商人との関係でイスラム教が広まった」という歴史があります。

 このマレーシアやインドネシアについては、より以前には「インド・ヒンドゥー教」の影響があったり、宗教的には興味深い地域です。


 こうした事情で、仮ににそれぞれの地域において「ユダヤ人がユダヤ教を辞める」というのは、ごく個人的な「改宗」にほかなりません。親戚一同はやっぱりユダヤ教でしょうし、イスラエルに住んでいるなら、なおさら周囲の人達もユダヤ教徒であろうからです。

 イスラム教しかり、「中東人がイスラム教を辞める」ということは「個人的な改宗」であり、親戚も地域の人も、やっぱりイスラム教のままであることが大半でしょう。


 ところが、特に今あなたが「日本人」である場合、「キリスト教を辞める」というのは、これらとは大きく異なります。そもそも、周囲の人や親戚は「キリスト教ではない」ということが当たり前で、たいていは仏教です。
 地域宗教、民族宗教がほとんど仏教・もしくはそれと習合していた神道だったりしますから、「キリスト教を辞める」というその後には、そうした仏教や神道に囲まれることになるわけです。


 そこで問題になってくるのは、日本人において「キリスト教を辞めた」場合、

「では、仏教や神道に ”戻る” のか?」

ということです。ある宗教を棄教した際、民族的・土着的にベースになっている地場宗教に「戻る」べきなのか?それとも「どうすればいいのか」ということが、その後を生きる上での課題になってくる、ということですね。


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 しかし、そもそも日本人で「キリスト教徒になる」ということは、土着の信仰を一度「裏切っている」わけですから、そこに戻るという選択肢は、なかなか難しいかもしれません。明治ごろに入ってきた宣教師によってキリスト教に改宗したおうちもあるでしょうし、近年になってキリスト教系新興宗教に、親なり祖父母なりが入信したおうちもあるでしょう。

 彼らは明治から現在のどこかの段階で、「仏教や神道に決別して、それは間違っている、キリスト教のほうが正しいんだ」と思ったことによって入信したわけですから、わざわざ誤ったほうへ「戻る」というわけにはいかないのです。

 はて。困りました。

 そこで、どうしたらいいかわからなくて「別のキリスト教系宗派に移動する」という迷走を始める人も、意外と多くいます。仏教や神道には戻れないけれど、今属しているキリスト教の宗派が気に食わないのであれば、違う宗派であれば良いかもしれない、と考えるのは自然なことだからです。


 さて、ではこの記事では、稀代の解脱者である武庫川さんなりに、すっきりと理解しやすい「キリスト教を辞めた後の生き方」について、解説してゆきましょう。


 まず、いちばん最初に覚えてほしいことは、

「人は、セカイを物語でしか知覚できない」

ということです。

 人は、生きてゆくにあたって、「何らかの物語」を必要とします。その「物語」を通してしか、セカイを生きてゆくことはできません。

 ユダヤ教やイスラム教、キリスト教はその最たるもので「神が作ったこのセカイを、神の意志に沿って生きてゆく」という物語を信じ、自分の人生に当てはめてゆくものだからです。

 仏教や神道も似たようなもので、「ブッダの説く教えに従って生きる」とか「八百万の神々を崇敬しながら、自然とともに生きる」とか、そうした ”物語” を自分で納得しながら生きてゆくのが宗教的人生というものなのです。

 あるいは無宗教の人にとっても「物語」を重視して生きてゆくことしかできません。会社における自分の存在を定義付けたり、自分の仕事や趣味などに「自分らしさ」という物語を見出したり、家族を重視してそれを第一にしたり、なんらかの形で「自分の理想とする物語」を仮置きして、そこに自分の人生を沿わせながら生きてゆくことが幸せだと、いうことになるのです。


 ですから、「宗教を辞めた後の生き方」とは、すなわち「自分が軸足にする、あるいは沿うための”ものさし”のように使う 物語 を設定すること」にほかなりません。

 キリスト教をはじめとした「宗教」とは、「誰かが設定した物語を生きる」という行為です。

 それに対して、これからの生き様は「自分が設定した物語を生きる」ということになるわけです。


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 では、その「物語」は、どのように描けばいいのでしょう。

 キリスト教の場合は、天地の創造段階からすでに「誰かによって提示された物語」が存在していました。ですから、人はただそれに従えばよかったのですが、それを否定するのであれば、

「自分自身で、天地創造から始めなくてはいけない」

ということにもなりかねません。恐ろしいことですが、実際にはそうなのです。

 この「自分自身で、自分がなぜ存在するのかを設定する。あるいは、物語を語り始める」ということができないと、ずっと永遠に囚われ続けるのですね。

 仮に「自分は家族のために生きるんだ」という物語を設定したとしましょう。それに向かって邁進することはできます。それはそれで幸せです。問題はありません。

 しかし、なにかトラブルに突き当たったときに「はて?なぜ私は、この家族のために頑張っているんだろう」とその物語が崩れてしまったりするわけです。

 妻の浮気ひとつでそうなったり、娘がヤンキーの彼氏を連れてきただけでそうなります。息子がオレオレ詐欺の実行犯になったりしたら、もうおしまいです。

 キリスト教を信仰していたときは「これは神が私に与えた試練なのだ」という物語にすがってなんとか耐えられたものが、もういけません。家族という物語しかないと、それはとても脆いものだったりするのです。

 会社人間になるのもおなじです。会社、つぶれます。肩叩きに会えば、会社という物語が瓦解します。
 車やバイクを趣味として、それに全力を注いでもいっしょです。それぞれの物語は、うまくいっている時はとても強いパワーを持っていますが、ガールズバーのお姉ちゃんのために1000万の限定スポーツカーを売ってしまうようなハメになるかもしれません。

 あとはストーカーまっしぐらです。

(ちなみにストーカーも「自分は愛している」とか「自分は正しい」という物語を一生懸命生きているので、治りません)

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 結局、人は「天地創造」から物語を開始しなくてはいけないのです。

 つまり

「なぜ自分はここにいるのか」

というところから物語はかならず始まるのです。すべての宗教は、だからこそ、そこから書き始めますし、宗教を辞めても、あなたやわたしは、そこから物語を再執筆しないといけないのです。


 実は以前から、チラチラとお話している通り、稀代の解脱者である武庫川さんは、別の名前で「ルーツを調べる」というサービスを提供しています。

 このルーツや先祖というのは、まさに「自分だけの、オリジナルで、よそにはない、ほんまもんの」物語なので、たいへんに「宗教と対比するうえで、都合がよいツール」ということになるでしょう。

 しかし、あまり普通の人は「自分のルーツ」について、ざっくりとした興味・関心はあっても、それが

「自分の物語と密接に結びついているんだ」

とは思いませんが、それは徳川家康のせいで(笑)、まんまと家康の罠にひっかかっているから、そうなっているのです。


 え?いきなり何を言い出すの?と思うかもしれませんが、「聖書の筆者のせいで、世界の人たちが洗脳されている」のとおなじくらいには「家康の陰謀のせいで、日本人の観念が洗脳されている」ので、真実を知ればみなさん驚くと思います。

 まあ、簡単に言えば、日本人の多くには源氏の子孫とか、平氏の子孫とか、皇室の権威を継承する氏族がアホみたいにたくさんいたのですね。そういう人たちが各地に根付いていて、戦国時代には領地を持って戦うようになっていたわけです。

 ところがまず秀吉が天下統一をして、「はい!そこまで!自分の権利を主張するのはやめ!」と言い出しました。検地や刀狩りをして、「源氏や平氏や、元地方豪族・貴族たちの個人資産をあぶり出し」て、それから「実力行使できる武器を拠出させて」封じたわけです。

(預金封鎖みたいなものです)

 これはよく出来ていて、「元貴族、元武将、元領主」は、自分の領地の権利を主張しますから、秀吉は軍事力にモノを言わせて、それらを「いったんストップ」させたのです。そして自力救済をしないように、武力も取り上げました。

 ではなぜ元貴族や元領主は、自分の権利を主張するか。 それこそが「天地創造の物語」とリンクします。

 「自分たちは天皇家の末裔であり、地方の管理を任されていたので、このド田舎村の荘園管理者等から戦国武将に成り上がった。天皇家とはつまり、アマテラスの子孫であり、天皇がアマテラスの子孫であると言うなら、我々だってそうだ。なのでこの領地は俺達のものだ」

という発想であり、そういう歴史があるわけです。

 秀吉政権を受け継いだ徳川家康は、そのことを最もよくわかっていて、なおかつ自分は「源氏の子孫と称しているけれど、実際にはめっちゃ怪しい」という自覚もあります。

 ということは、家康クンは、天皇家の権威において「今のところは将軍という肩書をもらえているけれど、いつもっと正当なやつにひっくり返されるかわからない」という恐怖を抱えながら生きていくことになりました。

 だから、「苗字を奪う」という行為に出たわけです。どの氏族も、「自分たちの出自、ルーツ、元の貴族の時、武将の時の情報にアクセスできないように」苗字を名乗らせなかったわけですね。

 そして幕府と藩に従っている「家康管理下の者だけに、苗字・帯刀を許す」という方式を取ったわけです。

 つまり、自分の言う事を聞くヤツにだけ、先祖の物語の継承と、武力を許したのです。


 まあ、こういう流れで、日本人は江戸時代に「藩に属する武士」の家でない限りは、「天地創造からの歴史の物語と、自分の家に伝わる氏族の物語」を失いました。全部家康の陰謀で、それはバッチリうまくいったわけです。

 実際には藩に属さなかった元武士もたくさんいて、彼らは「採用試験には受からなかった」けれど、元武士の子孫であることは変わりません。そういう人たちが「田舎のたんぼ」を領地として今も大事に持っているのです。

 みなさんの親や祖父母の実家は、そうした「ド田舎村のおじいちゃんのおうち」だったりすると思いますが、たいていその家もしくはその親戚の「本家」と呼ばれるおうちは「元戦国武将」であることがほとんどで、そして彼らは「源氏や平氏や藤原氏や各地の地場豪族、荘園領主あるいはその家臣など」の家柄です。

 そういうことを探してゆくと、9割位のおうちはそうなんですね。あなたは「自分は庶民」だと思っているかもしれませんが、先祖はそうした「貴種」であることが大半なのです。


 そうした理由で、「キリスト教を辞めて、アイデンティティを失っている人」には、まず「先祖を調べろ」とおすすめしています(笑)

 そうすることで、「失われていた、自分だけの真理真実な天地創造の物語」にたどり着けるからです。

 それは仏教とか神道とかとは、いったん関係なく、「あなたへ繋がる氏族の物語」ということになります。先祖が仏教徒であるか、神道を信仰していたかとはまた別の次元の話でもあります。


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 実はこれ、「聖書」でもまったく同じことをやってるんです。

 マタイの書、なんかを読めば一発でわかりますが、アブラハムからイエスに至る系図を、たらたらと載せています。あれは「系図がつながっているから、イエスにはその資格があるんだよ」ということを一生懸命説明したいのです。

 みなさんの家柄にも似たような系図がかならずあります。(それは本家に系図があるとか、そういうレベルではなく、どのように今の苗字につながっているか系譜にできる資料がちゃんとあります)

 聖書も「先祖がこうなので、権利があるんだよ」という話をずっとしていて、みなさんの田舎の本家も「先祖がこうなので、権利があるんです」という話をずっとしているのです。

 まさに物語の世界ということなんです。


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 ながながと書いてきましたが、「天地創造からの物語を持つ」ということが、人類のひとつの生き方の「根幹」になるものだと思います。

 それはあくまでも物語ですが、真理として「あなたや私が、なぜいまここに存在しているのか」を明確に示すものだと思います。

 そして、その物語をどのように未来に受け継いでゆくのか。

 それが、これからのあなたの生き方の支えとなることは、疑いありません。


(おしまい)


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