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エホバの証人が知らない「自分が神に選ばれた」かどうかの証拠


 毎度おなじみ、解脱者ムコガワのよもやま話のお時間でございます。

 ここのところしばらく、一般の方に向けてのお話を書いていたのですが、今回は特定の「エホバの証人」という宗教を信じておられる方に向けてのお話をしようと思っています。

 んがしかし、宗教や哲学に興味がある方にとっても、かなり興味深い、おもしろい内容を書く予定なので、お暇でしたらぜひ寄っていってください。


 ところで、みなさんは仏教徒でしょうか、あるいはキリスト教徒でしょうか?

 日本には実はキリスト教徒というのは、ほんの数%しかいないので、大半の方は仏教徒ということになっていますが、ふつう、みなさんは

「自分は神に救われるだろうか」とか「自分は成仏して輪廻転生から抜け出せるだろうか」とか

そういうことはこれっぽっちも考えていないと思います。まあ、それはそれでオッケー。


 ところが、熱心なキリスト教徒は、「自分は神に救われたい」「天国へ行きたい」「永遠の命が欲しい」という気持ちを抱いており、特に私がその昔両親に連れられて入信していた「エホバの証人」という新興宗教では、特にその思いが強い傾向にありました。

 しかしまあ、これはキリスト教系の信仰においては、とても普通のことで

「神さまによって救われる」

ということはベーシックな考え方です。それ自体はぜんぜん問題ではありませんし、キリスト教以外でも究極的な教えの根幹は「救い」にあることはすでにご承知の通りかと思います。


 さて、あなたやわたしが神さまによって救われるのか、あるいは救われないのかは、これまた極論を言えば神様しか知りません。あなたがいくら努力して頑張ろうが、いくら禁欲的に生活しようが、いくら他人に施しをしようが、

「おまえ、実は救われたくてワザとやっているだろ」

なーんて神さまに見抜かれてしまえばおしまいです。

 表向きは敬虔なクリスチャンを演じていても、陰ではあらぬ考えを抱いていたり、よこしまな思いを秘めているのであれば、そんなこたあ神さまは全部お見通しであり、残念ながら天国へは行けず地獄行き、ということになっています。

 そこを通常のクリスチャン生活では、

「まじめ生活」→「よこしま内心」→「やっぱり改心」→「あらあら失敗」→「また懺悔」

をあっちこっち繰り返しながら生きてゆき、その全体像をイエスさまが

「うん、まあ、何度だって許してあげるよ」

とにっこり微笑むので、これまた信者はキュン!と惚れ直すことになるわけですね。

 この一連のサイクルこそが

「信じる者は救われる」

というシステムの根幹であり、カトリック系の教会では、協会において懺悔・教誨を繰り返しながら信仰生活を歩む、という流れになったりします。厳密には、カトリックでは、善行を行うことを重視しており、「実際に行動する」ことを重んじていました。(内面よりも、表向きの善行というニュアンスで理解するとわかりやすいでしょう)


 ところが、この「いつも何度でも」のシステムを教会がコントロールしていたものですから、教会はどんどんと腐敗の温床になってゆきました。

 たとえば、入れ替わり立ち代わり信者が「神父様!実は私はこんなエッチなことをしてしまいました!」なんてことを告白するものですから、聞かされたほうもムラムラしてしまい、聖職者が性職者に転落してしまうなんてことは序の口。

 罪や悔いをコントロールし、「チャラにする」ということが教会のひとつの役割になってしまったので、教科書でおなじみの「免罪符」なんてのを発行してしまうようになったのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%96%E5%AE%A5%E7%8A%B6


 免罪符は「喜捨・寄進をすれば罪が免れるよ」というもので、結果的に

「金で魂の許しを得る」

というしくみが出来上がってしまったのですね。


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 さて、これを知って激怒したのが、これまた教科書で有名なルターさん。実はルターが疑問に思ったのは単純な免罪システムではなく、

「免罪符を買えば、すでに亡くなったものの魂も許される」

という解釈をつけた点に疑問を持ったといいます。生きている人間が贖罪の寄進をする行為はともかく、死んでるヤツになんでそれが効き目があるねん!というところがツボだったようです。

 まあ、話はすっとばしますが、それからあんなことやこんなことがあって、「旧来の教会であるカトリックとプロテスタントが分かれましたとさ」ということも教科書で習ったとおりだと思います。


 さて、カトリックでは、「告白・懺悔・贖罪」という3つのステップで許しを得ていました。イエスは寛大なので、そういうステップを踏めば許してくれます。だから、許されれば神に認められるという理屈が、(いちおう、なんとなく)通りますね。

 反面、プロテスタントでは、教会の役割がもっと小さくなり、「神とあなたやわたしとの個人的関係」が強くなります。

 そもそもカトリックでは「素人は聖書なんか読んじゃだめ!間違った解釈をすると危ないでしょ!」ということで、ただの信者は聖書すら読んでいませんでした。

 ところが、個人との関係を重んじるプロテスタントでは、聖書をじかに読むことができるようになり、印刷術の発展とともに世界中で誰でも聖書に触れることができるようになりました。

(エホバの証人も「聖書研究」が中核ですから、プロテスタント系だと言えます)


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 さて、ここからプロテスタントの話に入ります。カトリックと違い、「行動」「善行」よりも心の内面を重んじるプロテスタントでは「信仰」という心根(こころね)のほうに主軸を置くようになります。ですから、外側からは見えないし、悪い例ながら”免罪符”のように「目に見える救いのパスポート」がなくなってしまいました。

 そこで、じゃあ信者は

「どうやったら神の存在や救い、許しを実感できるのか」

というちょっとした問題点が生じたわけですね。そんなもん目に見えませんし、神がどう思っていて、私達をどこで選別しているかわからないので、信者からみれば

「まったく皆目、見当もつかない」

ことになってしまったのです。


 この「こっち側からは、ちっともわかんない」ことが、プロテスタントに第二の進化を生みます。

 ルターと同時代にプロテスタントに大きな影響を与えた人物に「カルヴァン」という人がいます。

 このカルヴァンは、「どうせ、こっちからはわかんねえんだから」ということを突き詰めて考えて

「ってことは、もう神さまは最初から救うやつと救わないやつを決めてるんじゃね?」

と思いつきました。(二重予定説)

 この考え方、厳密にいえばけっこうな「逆ギレ」であって、開き直った感もあります。

「善行を積もうがどうしようが、すでに決まってるんだから、じたばたしても始まらねえや、てやんでえ!」

という発想です。

 このカルヴァン説だと、「悪行を行っても、神が認めた人材は、ちゃんと自動的に神に立ち戻る」ということになっています。めっちゃ特権階級ですね。上級国民みたいなものです。


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 それから、いよいよ最後の第三段階に突入しましょう。カルヴァンの理論は、プロテスタント世界に大きな影響を及ぼしたのですが、不思議なことに、だからといって

「どうせ最初から決まっているんだったら、盗みをしようがお姉ちゃんを泣かそうがどっちでもいいじゃないか」

とは誰も思わなかったようで、ここから新しい発想が生まれました。 

 神さまがすべてを牛耳っていて、神が全能によってコントロールしているということは一旦まるごと受け止めるわけだけれど、神さまがいろんなことを決めているのであれば、

「たとえば才能とか、そういうもの(ギフト)も神から与えられたもので、それに由来する生きざまとか職業のようなものも、神の思し召しの現れに違いない」

と考えるようになったのです。これは大事な大事な第三段階です。

「天賦の才によって、それぞれが天命(天から与えられた任務)を全うし、生きること」

という考え方が、プロテスタントの最終段階です。

 ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という名著を書き、資本主義のしくみを解き明かしました。

 ”信仰を持ち、天命を実現すべく労働にまい進し、社会に貢献し、神のわざを世間に示すことを実行すれば、もしそれが神のお眼鏡にかなっているのであれば、その行為は祝福されるに違いない”

ということが、資本主義の肯定につながったというのです。

 もっとわかりやすく言いましょう。

「救われる者は、資本主義的に成功者となる。それが証(あかし)で、救われる証拠だ」

というわけです。

 なぜなら天賦の才能を生かしており、天命に従っていて、それが成功しているのだから、つまりは神のお眼鏡にかなっているのだ、という理屈です。

 たくさんの経済的サービスや商品を提供し、それが成功していることは、「隣人愛」の実現である、ということなのです。


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 さて、そろそろまとめに入りましょう。

 エホバの証人の教義では、結局のところ「何によって神に救われるのか、その証明は最後までなく、わからない」ということになっています。

 ふつうのプロテスタントだと「俗世での成功、経済的成功は、神の祝福の証であり、これもまたギフトである」ということですから、成功者はいっそう努力し、そしてアメリカのお金持ちのように財団を作って社会貢献に励みます。

 それが「神に選ばれた証拠」だと信じているからです。

 けれど、プロテスタント系でありながら、エホバの証人においては自分が救われるかどうかはわかりません。

 なぜなら、実はこの根幹部分がいかにも旧来のカトリック的で、

「救われる=たとえば14万4千人に選ばれるかどうかは、組織だけが知っている(教会だけが知っている)」

という教会絶対主義を取っているからです。

 本来であれば、救いは神とあなたとの個人的関係なのに、その部分を「教会(協会)が牛耳っている」というところが、この宗教のミソなのですね。


 エホバの証人の組織が今後どうなるかは、この部分をどう理解するかにかかっています。もしあなたが心からエホバに対しての信仰があるとすれば、

その信仰はあなたと神との個人的関係であり、なぜそこにわけのわからん組織が介入するのか、まったく説明がつかない

からです。


 その意味ではプロテスタントのほうがマシかもしれません。なぜなら、

「神は直接、あなたが救われるかどうかを教えてくれる」

からですね。

 本来は、そこが、まさにその部分が聖書を信じる喜びのはずなのですがねえ。

「私には神がついている!イエスがついている!」

と実感できるからこそ、キリスト教信者は救われているのに、エホバの証人にはその実感がなく、社会的な成功もまったく訪れません。

 それはプロテスタント的に言えば

「あんたらは救われないことが確定してるから、俗世で落ちこぼれてるんじゃね?」

ということなのです。

 ほら、それが証拠に成功してないでしょ!

という理屈です。


 とまあ、すべては信仰の考え方ですから、絶対的な正解なんてものはないんですが、神学的にはたいへん面白い話だと感じます。

 みなさんの信仰が、神に祝福されますように。





 



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