シン・弱者論4 〜弱者でありつづける権利〜


 前回の考察で、「強者も弱者も”誠意と共感”を共通言語として向き合うのが理想である」ということをお話したが、今回は、その限界と、そこを超えた「極限」を見てゆきたい。

 誠意という共通言語を持って互いに接するのは、もちろん理想的だ。

 しかし、これは強制力を持つものではないし、そもそも「こうありなさい、こうしなさい」ということを全ての人に縛りつけることも、またおかしな話だとわかる。

 だから、「弱者支援を受けたいのなら、誠意を持とうね」というところまでしか提案できない。ここがひとつの限界点なのだ。


 そうなると必ず

「わたしは誠意を持ちたくない。共通言語も、支援もいらない」

という人たちが一定数は出てくることは否めないのである。


 これを、認めてしまおう!というのが、さらに新しい提案である。

 これまでの弱者支援や施策では、「こうしたものを認めない」方向性で凝り固まっていた。ホームレスは、どこかの住居に入ることが理想であり最終目標であるとされているし、孤独死はふせぐべきものとされている。

 支援からこぼれ落ちる人たちがないように、というのはすべての支援者の願いであり、逆に言えば

「私は支援がいりません!」

という拒絶は、

「そう言うほど、苦しんでいるのだ」

という解釈で、さらなる支援の押し付けもなされてきたわけである。

(なんとなく、ここにも共通言語のズレが存在するように感じる)


 しかし、そうしたこれまでの視点を、切り替えるのはどうだろう。

「人には、のたれ死ぬ権利がある」

「人は、見放される権利がある」

と、仮定してみると、何が見えてくるだろうか。


 このことは実は私の父が癌で亡くなる時に、ずっと考えさせられていたことであった。

 父は癌が発覚して、余命が残りわずかであることを知ったとき、一人で市営住宅に住んでいた。私は別に一戸建てを購入していて、当然父と同居する選択肢もあったし、そう提案したが、彼は最後まで一人で住みたがったのである。

 「子供や孫と最後の時を過ごす」というのは、一定の人が描く理想の最期だが、彼がそれが本意ではなかった。ぶっちゃけて言えば、母と離婚して独身だった彼は、お付き合いをしている女性がいて、その人とできるかぎり「自由に会ったりしたい」ということを優先したのである。

 そうすると、息子の家に閉じ込められるよりは、最期の瞬間まで一人暮らしを謳歌したい、と考えたらしいのである。

それは、充分彼の権利に値するだろう。


 このことは、「周囲からみて、こうあるほうが理想だろう」という生き方は、単なる押し付けに過ぎないのではないか?という疑問を生んだ。

 

 そして、以前にも書いたが介護を受けているおかんのこともある。

(↑介護までの経緯はこちら)


おかんは時に介護サービスを拒絶し、好き勝手する。施設の迎えがくる頃を見計らって家から姿をくらますこともある。

 それが良い事か悪いことかは別にして、彼女は

「好き勝手にしたい権利を主張している」

のだ。そして勝手に出歩いて、仮にそこでのたれ死にしたとしても、

「出歩きたいったら出歩きたい」

のである。施設で何十人ものババアに囲まれて強制的にお遊戯をさせられるより、たった一人で自分の意志でお散歩したいのである。

 そして、結果論として野原でのたれ死にするかもしれないが、その死の瞬間までのプロセスを評価するならば、それは

「自由に出歩く権利」

を認めざるを得ないのではないか?と考えるのである。

 同様に、うちのおかんは自宅をゴミ屋敷にしていたが

「賃貸住宅を借りてゴミ屋敷にして、孤独死して大家に迷惑をかける」

のと違って

「おかんのゴミ屋敷は自宅の持ち家であり、死後迷惑をかけるのは息子である私一人だけ」

ということになる。私に対して誠実かどうかをとりあえず脇へ置いておけば、おかんは自宅をどうしようが、好きにできるわけだ。

(なので、息子である私は、死後一週間の腐乱死体となることだけを免れるために、介護保険をつかって、せめて2〜3日に一度は、ヘルパーが訪問して死体を発見できるように予防策を講じているのだ)


 こうした意味で、強者である私は、弱者かもしれないおかんに対して、

「その好き勝手に生きる権利、のたれ死にするかもしれない権利に対して、誠意をもって尊重している」

わけだ。これは強者の誠意である。


 だから、強者は、誰かがホームレスのまま支援を拒絶してのたれ死にをしたとしても、それを可哀想で惨めなことだと思うのではなく、

「権利と尊厳を持って、一人で逝った」

ことを尊重することができると思う。

 これは「誠意と共感を持って互いに相(あい)対する」という誠意の理念とも矛盾はしない。

「おのれの思うところを互いに尊重する」

ということは、たとえ支援を拒絶して、傍若無人にのたれ死んでも万事OKだということなのだ。


だから弱者が誠意そのものを拒絶しても、強者はまったく動じることはない。

「潔く、拒絶して一人で死ね」

ということは、相手に対する卑下ではなく、その尊厳の尊重だと解釈できるのである。こちらも、誠意と尊厳をもって

手を引く

のがひとつの正解なのである!


 これを、私は「弱者でありつづける権利」と呼ぶ。弱者は何も、強者が理想とする「一定の生活レベルや、一定の暮らし」を実現するために努力する必要はないのだ。それは強者の押し付けであり、一方的な理想像に過ぎない。

 それとは真逆の「孤独なる生き様」を所望しても、別にバチは当たらない。望み通り、人は「孤独のうちに死ぬことは叶う」とすれば、強者の弱みに踏み込まれることもないわけである。


 この「弱者であってよいという権利」を理解すると、世界中で起きている弱者の問題についても、また新たな見地が芽生えてくるのだが、次回はその話をしたい。


(つづく)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?