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弱者支援の新基軸 〜Cakes炎上と旭川いじめ事件から〜


 「弱者とは何か」というテーマは、解脱者ムコガワの大事な考察テーマです。以前からこのテーマについては考え続けていて、

https://note.com/mukogawa_sanpo/m/m2dafcdea220d

 弱者側からの論考も、支援者側からの論考も、いろいろやってます。


 ところで、今回、ネットでは有名なトイアンナさんが、示唆に富む記事を上げておられたので、それをもとに考えてみたいと思います。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/82732

 元記事では「旭川いじめ事件で、学校が被害を矮小化した件」と「Cakesで幡野広志氏が2度めの炎上を起こした件」について触れ、

”弱者支援にどんな問題が隠れているのか”

について考察されていました。

 これはとても参考になる記事だと思います。

 詳しくは元記事を見ていただくとして、簡単に要点をまとめると


■ 旭川の中学校の教師たちは「防衛機制」によって、事態を軽んじたのではないか?

■ Cakesにおいて幡野氏が二度目の炎上をしたのは、性暴力・虐待の存在を無視して「否認」してしまったのではないか?


というものでした。加えて、

■ 被害者というものは完全なる善ではなく、逃避行動として悪に染まることがある

■ 被害経験は、支離滅裂なものとして記憶され、話される

■ 被害者は支援者に感謝せず、むしろ攻撃することすらある


ということも指摘しておられます。


 この後半部分は特に重要で、「被害者は完全なる善ではなく、支援者に対して悪人のような言動を取ることが多い」という事実は、弱者支援の現場では誰もが体験していることだと思います。

 これをもって、普通の人は2種類の受け止め方をします。


A そういう悪人のような言動を取るのだから、従って弱者になったり、被害を受けたのだ。自業自得である。

(これは、原因と結果を取り違えて理解することで、納得してしまう例)


B たとえ被害者であっても、そういう悪人のような言動を取るのであれば、私は嫌いだ。

(支援したい、手助けしたいと思っていた人たちが、どんどん辞めてしまう例)


 こうした考え方になるのは、正しいです。正しいと言いきってしまうのには、もちろん理由があります。それは、これを読んでいる人たちや、支援の初心者にとっては、そう考えるのは

「とても自然なことで、普通のこと」

だからです。

 弱者支援をしていると、支援者に対して攻撃をしてきたり、恩を仇で返すような仕打ちに遭うことが多々あります。多々あるというより、ある程度件数をこなせば、「必ず遭遇する」と言ってよいでしょう。

 しかし、このことは、これまでは弱者支援の考え方の中では、

■ 見過ごされてきた

■ 見ないふりをしてきた

と言えます。

 だからこの問題は繰り返され、新しく善意で支援に参入する人たちと、去ってゆく人たちのバランスが取れていたので、なんとかなりたっている部分があります。


 トイアンナさんはこの部分を「トレーニングが必要」「理想的な善なる被害者像とは異なっても、支援する必要がある」としています。

 まったくもってその通りです。


 ただし、それは「普通の人」にはできません。なぜなら、普通の人の「善」と弱者支援の「善」が必ずズレるからです。

 そこには「悪人であっても救うべきである」という善のゆがみがあるので、通常の「善人でありたい!」と願う人が介入すると、気がおかしくなってしまうのですね。


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 だからこそ、今回まだどこでも論じられていない新しい「基軸」を打ち出すとすれば

【 弱者をマイナス状態からプラマイゼロに引き上げる支援者は、そこまでだけを対応する。善悪の公平なジャッジメントはしない 】


という第一段階と

【 プラマイゼロになった弱者は、ふつうの状態であるので、はじめてそこから公平なるジャッジメントを行い、プラスに引き上げる 】

という第二段階に切り分けて、担当者を替える、ということが必要だと判明したのです。

 以前紹介した記事でもちょっと出てきましたが、

「犯人が完全なる悪人であっても、弁護はしなくてはいけない。それでも弁護するんだ、という弁護士の役割」

が第一段階です。そして、その上で、

「一般生活、ふつうの暮らしに戻る中で、どこが間違っていて、どこを正すべきかをジャッジメントする検察・裁判官の役割」

が第二段階です。


 学校の教員は、もともと「悪人をもとに戻す」ことが本務ではなく、「プラスの方向に、児童生徒を引き上げる」のが仕事です。

 ですから40人の中で、悪意をもって妨害する悪人がもしいれば、授業はたちまちストップしてしまい、成立しません。その悪人をプラマイゼロのふつうにするには、授業や説諭とはまったく別の方法論が必要だからです。

 だから、悪意に満ちたいじめの前では、「普通の教師」は思考停止してしまうことがあるのですね。


 幡野氏も同じです。2度の炎上が起きた根源的理由は、「弱者支援、相談に乗る」というスタイルでありながら「その実はジャッジメントをして評定を降している」から、破綻したのです。


 もし相談に乗る形ではなく、ある女性の事例、少女の事例を横目でみながらコメントするだけだったら、炎上はしないでしょう。某ちゃんねるの設立者のように、「批評しまくり、ジャッジしまくって」も、一部には嫌われるかもしれませんが、炎上はしません。

 なぜなら彼は「弱者を支援する気もなく、ただジャッジしているだけ」だからです。


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 その意味では、幡野氏が「病気を抱えている弱者」だからといって、「同じように弱者に寄り添える」と考えているメディアの編集者がいるとすれば、それは完全に誤りだと言えるでしょう。その時点で、これはメディアの責任かもしれません。

(参考)

https://satori-awake.blogspot.com/2018/02/blog-post_18.html

 弱者であれば、弱者の相談に乗って寄り添えるだろう、というのはまったくの誤解です。

 おそらく、弱者は弱者同士、叩き合います。人はジャッジメントすることで、自分を肯定しますから、弱者から他者をジャッジすることを取り上げれば、「本当に弱者中の弱者であるどんづまり」になってしまい、死にたくなること請け合いです。

 だから、弱者は他の弱者を見て「僕はこうしている、こう頑張っている、だからあなたも頑張ろう」とジャッジするわけですね。


 では、どうしたら弱者を支援できるのか。それはトイアンナさんも言っているように

「最強の”トレーニングを受けた”強者」

をあてがうことしかありません。それも2人必要です。

 1人は、その弱者が間違ったことをしている悪人でも、受け止め、プラマイゼロの状態まで支援できるプロ(=弁護士レベル)です。

 この人物は、自分が悪に加担してでも、今は弱者がマイナス状態にあるのだから、プラマイゼロに戻すのだ、という意志の力で仕事をします。

 けして善なる存在ではありません。悪を内包していないとできないからです。


 もう1人は、プラマイゼロから社会生活の中で、元弱者と社会をすり合わせて、その後の生活に落とし込んでゆくプロ(=裁判官もしくは教育者)です。こちらは、善なる存在であっても、自分の理念と矛盾しません。


 繰り返しますが、多重債務者が、万引き常習者の相談に乗っても、何も解決しそうにないように、これからの弱者支援は「プロ」の仕事として再構成する必要があるのです。

 けして、「善意の普通の人」ができるものではない、ということだと思います。あるいは「何か弱い立場を体験した人」が軽々しく何かを言えるものでもないということです。


 けれど、みなさんにはっきり言っておきます。

 弱者支援と言いながら、大半の人間は前者ではなく、後者の部分だけをやりたがるのです。

 それは悪いことではありません。むしろ悪に手を染めず、悪を内包しないいいことです。

 だから、この問題はたちが悪いのです。


(おしまい)


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