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親子問題を解くカギは、「無償の愛」である【前編】


 自称他称を問わない解脱者こと、武庫川散歩は「解脱者」を名乗っているので、仙人みたいに世捨て人であったり、空中を浮遊しながら徘徊したり、あるいは即身成仏して「おまえはもう死んでいる」なんて状態にあるのかな、なんて思われがちですが、

 世を忍ぶ仮の姿

では、意外とふつうの生活をしています。


 コロナ禍に振り回されている中小企業のしがない雇われ会社員でもあるし、3児の父でもあるし、40代なかばの中年太りしたおっさんです。

 まあそんな普通の家庭のお父さんでもあるムコガワですから、当然ながら親子の関係というものが存在しています。うちの息子は発達障害の傾向があり、学校ではちょこちょこいろんなトラブルを起こしてくるので、そうしたプチ事件にも毎回夫婦ともども対応している、そんな毎日を送っています。


 それとは別に、ちょっとだけ過去を振り返ると、うちの両親はエホバの証人という新興宗教に入っていた時期があったり、離婚して転職してお互いに貧乏になったり、うちの妹はお母さんがいないまま初潮を迎えたり、とそれなりに「ややこしい」家庭環境でも育ってきた思い出があります。

 またまた別の話ですが、私ムコガワはその昔、学校の教員をしていた時期があるので、貧困家庭の生徒や、親が障害者の生徒や、ネグレクトやそれこそ発達障害などのいろいろな親子の問題を目の前で見てきたという経験もあります。

 ごめんなさいね。前フリが長めですが、ざっくりとまとめると

「いろんな家庭のありよう、家庭の問題、親子のありようを見てきた」

というのが、私の前半生であった、ということです。


 ところで、さきほど両親が「エホバの証人」であったことに触れましたが、ということは私は今SNSなどでは少し話題になっている「宗教2世」という立場である、ということでもあります。

 世の中にはいろいろな宗教の2世信者がいて、多くの場合「親が信じている宗教を、なかば強制的に信じさせられているこどもたち」がおり、いろんな軋轢が生じているようです。

 SNSではそうしたこどもたちの苦悩が語られることが多くなっており、先日はNHKでもようやくその話題が取り上げられていました。わたしも不定期ながらそうした境遇の方たちのつぶやきウォッチしながら、親子問題のありようについて何かヒントがないか考えつづけています。


 親子問題というのは、一筋縄ではいかず、とてもわかりにくい内容を含んでいます。というのも、人類の歴史の中で、いつも親子は存在していたわけですが、どの親子にとっても「正解」はなく、すべての親子が悩みながら存在しているのも事実だからです。

 それを荒っぽく仮にまず2つに分けるとすれば、

「親が関わりを持とうとしてくる」ものと、「関わりを持とうとしない」もの

に分けられるでしょう。後者はとくに「ネグレクト」として、こどもの放置や虐待につながる問題として社会的にも認知されています。

 動物の世界でも「子捨て」「子殺し」という事例があるように、親が子供を愛せないということはあります。それは社会的には悪ですが、実際に「自分のこどもをかわいいとは思えない」人がいることは事実ですから、まずは「そういう人もいる」ということは受け止めざるを得ません。

 しかしこのように「親から子への愛がない」ことによって、子供たちの成長過程でさまざまな課題が生じることもまた事実ですから、被害をこうむる子供たちをケアしてゆくことは重要なことだと感じます。


 ところで、もう一方の「愛情がある」ほうにも、問題が隠れていることが多々あります。親から子へ「愛がある」「愛している」「大事に思っている」のはもちろんその通りなのだけれど「過干渉」や「過保護」になったり、ベタな言い回しですが「親が敷いたレール」などを強制する事例もあり、

「愛があるから万事大丈夫」

というわけでもなさそうです。

 つまり、親子間の問題は

「愛があっても問題があるし、愛がないのも問題がある」

ということが、まず第一段階として見えてきた、ということです。



 最初のほうで、「宗教2世問題」に少し触れたのもここに関係があります。親はこどもを愛していて、「自分は子供を大事に思っているからこそ、真理真実である特定の宗教の教義を息子や娘にも守ってほしい」と考えています。

 もし教義や戒律を破れば、言い方は悪いですが、神によって罰せられたり、悪魔に滅ぼされたりするわけですから、親としては

「愛情があるゆえに、必死に子供にも信仰を強要する」

ということが起きます。

 もちろん、こういうことは宗教に関係なく生じたりもします。親が医者で子供にも医者になることを強いたり、「悪いことは言わないからお前も公務員になれ」と進路を強制することも似ていると思います。

 憲法では信教や思想は「自由が保証」されているので、親が「これが正しい生き方だ、これが望ましい生き方だ」という考え方を持って、それを強制することは(とりあえずは)OKです。もちろん、こどもが「いやだ」と反論することもOKです。

 まあ、そうなると憲法のもとに、親子はどう生きるかガチンコバトルをするべし、というのが正しい親子関係になるというのがオチですが(苦笑)


 それはともかく、憲法ではどちらもOKで正しいのだから、大いにやりあって結論を出すのもひとつの方法ですが、現実問題としては信仰にしても進路にしても、親子間で考え方が違うとそれは軋轢として大きなひずみやゆがみを生じさせます。

 そしてたいていは、「力の弱い子供の側に、しこりを残す」ことが多いように感じます。特に進路などについては、「おまえが好きにするならお金を出さないぞ」といった経済力をたてにした強制が起こりやすく、子供の側はいろいろな力が不足しているので、不利になることが多いという現実がありますね。


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 さて、ここまで特に「親子間の問題がどのように起きているか」について注目してきました。愛がなくても、愛があっても問題は起きる、というのを再確認しただけですが。

 では、逆の見方です。それなら、「親子関係はどうであったら望ましいのか」「どんな親子であれば、問題が生じないのか」について考えてみよう、というわけです。

 私はそのカギとなるのは、同じ親子の愛であっても「無償の愛」であると考えるようになってきました。

 無償の愛とは文字通り「対価を求めない、結果を求めない、条件をつけない愛情」のことです。これはとても興味深いキーワードです。

 先ほど登場した「愛があっても親子問題は生じる」という事例は、「愛」と親は思っていますが「強制力や結果、条件、対価などをともなう」ことが大半です。

「俺はお前のためを思っているんだ」

ということばが付随することが多いですが、「こどものためを思って強制する、条件を出す、対価(結果)を求める」ということがもれなくついてきます。ここが

「無償の愛」

とは違うのです。



 この「無償の愛」というキーワードは、かなり重要なポイントだと思います。実は、息子の発達障害について、詳細な診断をしてもらったお医者さんがいるのですが、その方と子供の育て方について何気ない話をしていて、

「たとえば、一般的な話ですが、○○を頑張ったらご褒美をあげるみたいな言い方はどうなんですかね?」

という質問をした時がありました。そうすると、そのお医者さんは、

「うーんと、それだと『無償の愛』が与えられなくなっちゃうのでダメですね」

と即答したのです。

 この時に彼が「無償の愛」ということばを使ったのがとても印象的で、個人的に私はビビビときた思い出があるのです。

 お医者さんが言いたかったのは、報酬によって頑張らせることを覚えてしまうと、今度は

「こどもが、誰か別の相手に対しても、無償で何かをしてあげることがなくなる」

と言うことでした。つまり、サービス精神や、利他愛が育たず、条件付きや対価がないと動かない人間になる、ということでした。


 このことから、私は「無償の愛」を意識するようになりました。その目線で親子の問題や課題をひもといてゆくと、かなりすっきりと事態が見えてくるようになったのです。

 私と妻の間では、そのお医者さんの話から後は

「無償の愛が、あるんか?そこに無償の愛があるんか〜?」

というアイフルのCMのような自問を繰り返すことが始まったのです。


 すると、面白いことがわかってくるようになりました。


(つづく)





 






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