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幸せは偶然の「運」であり、不幸も偶然の「不運」である。


 日経ビジネスさんに「月収10万円の生活」についての記事がありました。

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00075/

 日本における貧困とは、おおむね月収10万円くらいの収入しかないことを示し、かつ今の新型コロナ禍の影響で、それすらおぼつかない人たちが潜在化しているのではないか、ということが書かれている記事でした。


 解脱者ムコガワは、いつも「弱者とは何か・貧困とは何か」について考えています。幸いなことに、私自身はとても幸せです。それは「悟りを開いたから幸せと感じているんだ」といったレトリックではなく、おそらく自分の人生を振り返っても、たくさんの人たちよりかは、俗世においても幸せな運に恵まれていたと感じています。

 もちろん、ムコガワの生活にも、大きなマイナスがいくつもありました。職を失ったこともあるし、難病を患ったこともあります。今進行中の病もあるので、いずれは「普通の生活」を失う時がやってくるかもしれません。

 それでも確実に私は「幸せだ」と言えるし、同時にそれは「運が良かった」とも言えるものだと思います。

 現代ビジネスさんの記事の中で、ホームレスになった人が今生活を安定させて、「僕は運がよかったんだ」と語るシーンがありますが、私もまったく同感です。

 無職になった時の運・不運によっては、私は貧困に陥っていたでしょうし、一人さみしくどこかで野たれ死んでいたことも十分にありえます。

 それでも、逆に今、家族を持ち、自宅を所有し、会社員として肩書きを得て、副業で貧しくはない程度の収入を増やし、メディアなどでも(別名義ですが)取り上げられることが多いのは、「幸せ」以外の何者でもありませんし、同時にそれは、「運が良かった」と言えます。


 人がどうして弱者になるのか、貧困になるのかについて、論理的に解き明かしたシリーズを先日書きましたが、

 強者は最初から何か偶然得ているものがあって、弱者は黙っていると坂道を転がり落ちるように、どんどん貧困や弱い立場になることを説明したつもりです。


 ということは、幸せであるということは「いくつもの幸運」が積み重なって維持されているものである、ということなのです。逆に不幸であるということは「いくつもの不運」が積み重なり、そのために坂道を転落してゆくものであるとも言えるでしょう。

 本当のところを言えば、弱者や貧困者にはとても酷ですが、弱い立場になればなるほど、

「よりいっそうの努力や苦労をして、坂道を登る方向へ歩み出さねばならないし、あなたを背負ってくれたり、後ろから押してくれる人は、基本的にはいない」

という事実があります。

 ですから、それを知ってしまうと愕然とした気持ちになり、二度と立ち上がれなくなることも多いと思います。わたしは、その事実をここに書いてもいいのかと正直いつも悩んでいるくらいです。

 ところが、人生においては、そうした坂道をすべり落ちつつあるような状況の時に、とても幸運なことに、「踏みとどまれるような平地がたまたまあった」り、「声をかけてくれるようなまったくの他人が近くにいた」り、「飲み水を出してくれる給水所があった」りすることがあるのです。

 これを聞くとふつうの人は「そんなもん、ないわ!あったとしたらたまたま偶然めぐりあっただけやろ!」と感じると思います。本当にマジでおっしゃる通りで、それは偶然です。単なる幸運です。

 単なる幸運なので、それに巡りあわずに、坂道をすべり落ちてゆく人もいるし、その幸運に支えられて、また坂を上り始めることができる人もいます。そして、坂を上り始めることができた人は、「自分は幸運だった」と感じるわけなのです。


 アメリカの大富豪や、ヨーロッパのお金持ちなどは、大金を稼いだあと、ほとんどの場合社会貢献の財団を作り、福祉などに還元しますが、彼らは「自分がラッキーだった」ことをよく知っているのです。ですから、自分に降ってきた幸運は、社会に還元するべきである、それがノブレスオブリージュである、と感じているのです。


 日本人は昔から、マジメで勤勉であるため、坂道を実直に登ることは得意だと思います。しかし、自分が坂道を登ることができるのは「幸運のおかげである」と考える人は少ないようです。それよりも「自分はこれだけ頑張ったのだから、これだけの結果を出して、これだけの立場を得たのだ」と感じて死んでゆく人のほうが多いでしょう。

 これは国土の性質もあって、日本という国は森があり、海があり、自然の恵みがもともと豊かで、自動的に雨が降って自然が循環するという地域性があります。水は山から自動的に流れ落ちてきますが、他の砂漠の国などでは「水が豊かである、魚が豊かである、山の恵みが豊かである」というラッキーは存在しません。

 世界の自然環境によっては、そもそもその土地がアンラッキーであるという地域もたくさんあります。だからたとえば中東などでは、紀元前から土地の奪い合いを行っていて、それが聖書に載っていたりするわけです。それらの土地では「ラッキーなのか、アンラッキーなのか」は偶然という概念で説明できなかったため、「一神教の神」を生み出して、納得しようとしました。神に従えば幸せになれるのではないか?と考えたのです。


 不幸や弱者が、坂道を転がるように重力によってどこでも・誰でもそうなる可能性があるとすれば、一部は幸運によって復活できるかもしれませんが、多数の人は転げ落ちたまま亡くなってゆくことが起こり得ます。

 それを防ごうとすれば、方法は2つくらいしかありません。一つは「幸運・ラッキーによって持てる者となった人たちが弱者に手を差し伸べる」か、もう一つは「政府や国家が介入して、幸運・ラッキーによって持てる者となった人たちから収奪して、再配分するか」です。

 前者は「お金持ちの財団」方式、後者は「傾斜税率・累進課税と生活保護かベーシックインカム」ということになるでしょう。

 人類の文化がもっと発展して、「こうすれば幸運と不運のバランスは人為的に調整できる」とか「幸運と不運はコントロールできないけれど、結果としての豊かさと貧困は調整できる」とか、そういう風になることを祈ってはいますが、おそらくあなたや私が生きている間は、とうぶんはこのままです。

 それを是正するためには、まったくおなじ話ですが「富者と貧者を調整するという難しい坂道を、人類は一歩ずつ登ってゆく」必要があるのです。国家や政府を理想に近づけるために、みんなが協力してそれに向かって登ってゆかねばならない、というわけです。それを怠ると、すぐに坂道を転げ落ちます。

 国家や政府ですらそうです。今回の新型コロナ禍のように、何か有事があれば国家や政府ですら、すぐに「転がり落ちる」方向へ引っ張られるというわけです。

 その時に、国家や政府があきらめてしまったり、躓(つまづ)いてしまえば、国家や政府そのものが、転落してしまうことだって、十二分に起こりえるというわけですね。

 日本という国家がラッキーだったのか、それとも北朝鮮だったらアンラッキーだったのか、アメリカならどうか、中国ならどうか、まだまだ答えは出ていません。


 私たちは、個人規模でも、国家規模でも、たまにやってくる幸運を掴みながら、たゆまず歩み続ける必要がある、というお話です。

 なんだか救いがない話だなあ、と感じるかもしれません。私もそう思います。ただ、救いはないのだけれど、坂を上り続けるんだ、その上に何かがあるんだ、という希望だけは残されています。

 人類はきっと、その希望だけを頼りに生きてきているのではないでしょうか。

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