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シン・弱者論3 〜誠意という共通言語〜


 前回までのお話で「立場的弱者」というものと「実質的弱者」が大きくことなることと、「弱者の持つ暴力性」(強者の持つ弱み)について考察した。

 現実の社会問題としては、「立場的弱者」だけを見て行う施策が不十分であるために、「実質的弱者」がないがしろにされている。

 だからこそ、そのギャップを解消できるように、これから新しい「シン・弱者論」を考えてゆかねばならないのである。

(これはまだ世界中のどこでも未検討の課題なので、これを読んでいるあなたは、時代の先を行っているのだぞ)


 さて、弱者は暴力性を内包している。弱者という立場を使えば、他のものより有利に動くことができる、と確信したとき、その「力」は悪用できる。

 よく話題になるのが、生活保護費でパチンコに行くのはどうなんだ?というネタだが、個人的には好きにすればいいと思うものの、

「生活保護という仕組みを悪用し、”就労努力をせずにパチンコをしつづけるという悪意”を発動することは可能」

だと思われる。つまり、悪意の暴力性がシステムに内包されているから、それを発動するのは「生活受給者の意志だけの問題だ」ということになるわけだ。

 あまり書きたくはないが、被差別の立場にあった人たち、あるいはそう主張する人たちが悪意を持って「えせ同和行為」を行う場面もある。法律によって正当に定められた「被差別者への補償」以外に、何かを強要する場面が実際に存在するわけだが、これも悪意の発動と言えるだろう。


 これらのように「立場的弱者が悪意を持って臨めば、悪意は実行に移せてしまう」ことが、立場的弱者のみで施策を行うことの最大の問題点だ。これはすなわち暴力性の発動ということになるので、かなりタチが悪い。


 このことは同時に、「立場的強者であっても、悪意に打ちのめされてしまうことが堂々と起きる」ということも意味している。強者は弱みを内包しているから、相手の暴力性の前に「要求を飲まざるを得ない」ことが起きるのである。

 

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 さて、ここで、弱者問題解決のちょっとしたヒントがあることに気づかされる。それは何かというと、弱者強者の関係をおかしくするのは「悪意」だということである。

 立場的弱者を「救う、支える」ために発案した施策は、「悪意がなければうまくいく」ものが多い。ただ「悪意を持たれてしまうと、悪用されてしまう」ことも多い。

 つまり、「悪意」は一つのカギとなることがわかる。


 では、この悪意を抑え込むにはどうしたらいいのだろうか。悪意の反対は「善意」だが、これまでは

「立場的弱者の一方的悪意を、立場的強者の一方的善意によって、なんとか受け止めてきた」

のが実態であろう。

 弱者支援の現場では、弱者から悪意や敵意を向けられることはよくある。その話は別の記事でも書いたので、ご参照いただきたい。


 そうした時、最初のうちは「支援者(立場的強者)の善意によって、包み込もうとする」のだが、それが限界を超えると支援者は壊れる。それをこれまでの施策では繰り返してきたに過ぎない。


 この問題を修正するために、ここではひとつの仮定的なシステムを提示したい。それは「悪意と善意」の中間に寄せてゆくような

「誠意(誠実さ・真摯さ)と共感」

をキーワードとするものだ。


 暴力性を内包した弱者と弱さを内包した強者が相(あい)対するとき、悪意があれば善意を飲み込んでしまい、立場は逆転する。

 それにブレーキをかけるのが、前提条件としての

「誠意と共感(相手のことを理解する姿勢)」

だ。

 ここで、頭の良い人なら「誠意」のようなふわっとしたもので、悪意を封じ込めることができるのか?と思うだろう。

 誠意は、とても強制力を持つような強さを有していないからである。


 なので、私が提案するのは、「誠意」を互いの共通言語(プロトコル・規約・手段)に組み込んでしまう方法である。

 弱者と強者が「誠意と共感を持って課題解決をしよう」という共通言語がなければ、そもそも問題は解決しないのだ。


 平たく言えば「お互いが誠意をもって、向き合わない限りは、弱者支援は発動しない」ということなのである。つまり、鍵(カギ)として「誠意」を用いるのである。


「支援の発動スイッチは、誠意である」

というところを起点とすれば、ある程度のこれまでの問題は解決するのではなかろうか?



 具体的には、以下のようなことである。

 病人がいて、彼は当然「立場的弱者」だが、それだけで無条件に弱者として扱われるわけではない、と施策を変えるのだ。

 看護者や支援者と病人がおなじ場所で活動をするわけだが、そこで「互いに誠意を持って対応する」ということを事前に宣誓(約束・共通認識)し、それが失われた瞬間に、

「もはや弱者の処遇からは切り離される」

(おまえはもはや弱者ではないと宣言される)

ということを鍵とするのだ。

 病人が暴れるのであれば、病室から放り出してもよい、という共通言語があれば、おそらく今まで問題行動があった病人でも、大半は誠意・誠実さを持って当たらずにはいられないだろう。

 自分が弱者として接してもらえるという約束には、「誠意」という条件があるのだから、悪意を見せれば、契約は失効するという考え方である。


 この互いに「誠意」を持つことを意識する、ということだけでも実現できれば、「支援者」が心を病むような事態は大きく減少するだろう。


 ちなみに、強者にはもともと「ノブレス・オブリージュ」という概念があり、これはもともと「貴族には自発的な無私の行いの義務がある」という考え方である。

 平たく言えば「強者には善意によって受け止める義務がある」と言い換えられるし、それは現時点でも強者の共通認識になっている。

 この考え方は1808年が初出だそうだが、もう200年も経っているのだから、これをブラッシュアップすることくらいは許されるだろう。

 ここで、新しい考え方を提案したい。それは、

「弱者のオブリージュ」

という言葉だ。

 ”ノブレス”は「貴族」の意味だから、そこを弱者に置き換える。貴族が持つべき「義務」というような重たい制約を科すわけではないが、

「弱者の誠意」

とでも言い換えればわかりやすいだろう。

「強者には、なすべき義務がある。そして、弱者にも、守るべき誠意がある」

というわけだ。


 これは何も難しいことを言っているのではない。強者はふつうの人間より少しでも社会へ還元すべきである、というところが前半分である。そして弱者は、「それを当たり前とうそぶくのではなく、そうした誠意に誠意を持って感謝しよう」という、ただそれだけのことである。

 それすらできていないので、今の社会問題へとつながっているのではなかろうか?

(日本とお隣の国の戦後補償の問題を考えればよくわかると思う。弱者が強者の賠償を永遠に要求することがよいのか、”互い”に誠意を持って対応を考えるのがよいのか、とてもシンプルな話である。ここで”弱者であっても誠意が大切だ”と説けば、意味がよくわかるだろう。)


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 ただし、まだそれだけですべてが解決したわけではない。

 ノブレス・オブリージュは、模範的概念としては成立するが、「強制力」や「罰則」があるわけではない。

 なので強者であっても、ノブレス・オブリージュの精神を持たないものもいるし、それを実行しないからといって罰せられたりはしない。


 ならば、弱者が「弱者の誠意」を持たないからといって、罰することもできない。ただ、ここでは「互いの共通鍵として誠意を用いよう」と紳士協定を結んでいるだけで、究極的には強制力を持つものではないからだ。


(ただ、事前の共通言語として「強者の誠意」「弱者の誠意」が必要だと互いが思っていれば、今起きているようなトラブルは大きく件数が減るだろう、と予想できる)


 では、次回では「誠意には強制力がない」とは、いったいどんなことを意味するのか、その究極の部分を解き明かしてゆこう。


(つづく)

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