見出し画像

シン・弱者論2 〜弱者の持つ暴力性〜


 前回は、これまでの社会がある程度対応してきた「立場的弱者」への処遇や施策が、誤っているとは言えないまでも「限界を迎えている」ことを問題提起した。

 そして、「立場的弱者」の陰に隠れてしまっている「実質的弱者」を客観的に把握する視点についても、提起した。

 その中でふとしたことから見えてきたのが「弱者の暴力性」と「強者の弱み」という真逆の事象である。


 これまでの法律的な政策や、社会活動や福祉における「弱者救済」は、まず「立場的弱者」を決めて、それをカテゴライズして、そこに施策を投入するものであった。

 たとえば、老人に敬老パスを発行して、交通手段の助けとするとか、老人医療の健康保険料を安くするなどは、わかりやすい例だろう。

 これは社会の発展において、その段階を踏むことはけして間違っているわけではない。ただ、社会が発展すると限界が見えてくる。

 お金持ちの老人と、貧困老人をおなじ保険料率でくくってしまってOKなのか?といったことは、どんどん後から見えてくるのだ。


 それはそれとして、現代の日本社会(あるいは世界)では、まだ「実質的弱者」の救済案については、まだまだ検討がされていない、スタートラインについたばかりのところだと考えられる。

 カテゴライズして、区分する上では「立場的弱者」の考え方はとてもわかりやすいので施策に向いているが、「実質的弱者」のほうは、行政や制度の上からは「見えない」からである。

 たとえば、男女の夫婦がいて、夫のほうが「給料が少ない」などで妻から暴言を吐かれたり、ハラスメントを受けているとしよう。この夫は「実質的弱者」だが、「立場」の論理ではまったく行政からは見えない。この夫にどのように救いの手を差し伸べられるかについては、おそらく行政的には、いまだ検討課題にならざるを得ないだろう。

 そもそも、どこに相談にいけばいいのかすら、世の男性諸氏は答えられないのではないだろうか。


 そうしたことの背後関係を理解するために、今回はまず「弱者が持つ暴力性」について、押さえておこうと思う。弱者はかならずしも、完全なる弱者ではない、ということを知っておかないと、いろいろな読み違えを起こしてしまうからである。


 孤独死する老人などに対して、福祉関係の人たちがいろいろなアプローチをしても、本人が拒絶する場面はよくある。私の母も独居老人要介護だが、気に入らないことがあると施設職員を追い返したり、居留守を使ったりするそうだ。

 その報告電話がケアマネなどから入ってくるのだが、おかんは自力では何もできない弱者であるが、手助けを拒絶するという「強い意志」を示すのであれば、施設や福祉の人はそれ以上手出しができなかったり、あるいは「職員としては困ってしまうだろうなあ」ということは容易に想像できる。

 この場合、立場的弱者の要介護老人は、暴力的だと思う。おかんが死んでも仕方がないと個人的には私は思うし、施設の方やケアマネに対して「困らせてしまってごめんなさい」と感じる。

 「弱者の持つ暴力性」によって、実質的弱者は、施設の方やケアマネに移行するからだ。(実際に困っているのは、福祉職員のほうであり、おかんはべつにほっとかれても困っていないのである)


 こうした事例は「看護の現場での病人の暴力性」など挙げれば切りがないが、これまではそれらはすべて「看護者が包容力を持って接すべきもの」として処理されてきた。

 看護師は強者の側にあり、心身健康であるから、不健康な状態に陥っている弱者が多少暴力性を持っていても、受け止めるべきだ、とされてきたのである。

 しかし、本当にそれでいいのだろうか?看護者は強者で、だから「耐え忍ぶことができるはずだ。その力を持っているはずだ」というのは、正しいのだろうか?

 現実問題としては、そうした横暴な病人の言動によって、看護師や支援者は深く傷つき、心を痛める。(当たり前の話だ)

 そして、今度は看護師や支援者の側が病を得て、退職したり休職したりすることが起きている。いったい、本当の弱者はどちらだったのだろうか?


 「看護師は強くない、支援者は強くない」という視点は”新しい”。


 これまでは「強者」は「強者」のカテゴリで語られていたので、「強者であるべきであり、強者であることは当然だ」とされてきた。たとえば学校の教師などは、法的に残業代も出ず、ボランティアに形で課外の部活動などの指導を強制されてきたが、それは教師が「指導側にある持てる者たち」であるという前提に立っている。

 ところが、実際には、バスケットボールの選手経験もない新任教員がバスケ部の顧問を持たされたりする。ここには「まったくのド素人が、教師であるという強者カテゴリによって強引に運用されている」わけである。

「教師は、勉強はできるが、苦手な分野だって当然ある」

ことは、見えない。意識的に見えなくさせられている。それはカテゴライズされた「強者・弱者」(教師と生徒)の枠組みを先に持ってきているからである。

 新任のバスケ教師が顧問になった時、3年間バスケを続けてきた上級生はその教師をバカにするだろう。それでも礼節をもって当たればまだマシだが、荒くれ生徒であれば新任教師の「教師性」すら否定する場面がある。

「あの先生は、役に立たない。ダメだ」

と判定し、指導に従わないことだってあるかもしれない。

 そうした経緯で、今度はその新任教師のほうが心を病んでしまうのだ。


========


 ここで、今回のまとめである。

「弱者には暴力性があり、強者には弱みがある」

ということは、大前提として覚えておきたい。これを意識することが、真の弱者論を語る上での基盤となるのだ。


(つづく)

 



 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?