神の蠱毒(こどく) 〜世界には、なぜ悪がはびこるのか〜
2022年という現在を生きる僕たち私たちにとっては、「この世界には神も仏もないものか!」と思わせるような出来事が立てつづけに起こっていて、まさに無慈悲で無常な日常を生きている。
もう、あえて何度も口にするのもどうかと思うが、「疫病」が蔓延り、「戦争」が起きて、「災害」に見舞われることが、世界規模で生じている。
こうした危機的な状況に囲まれながら、「果たしてこの世界を創った神とやらがもし本当にいるのであれば、なぜこんなことが許されるのだろう」と誰もが疑問に思うに違いない。それくらい、この世界は苦しみに満ちているのだ。
そんな至極当然の問いについての答えを考えているうちに、ある瞬間”「パッ!」と光が見えた。
「ユーレカ!」とでも言ってしまいそうな、一種の天啓のようなものが閃いて、それらの答えが一瞬にしてわかってしまったのである。
それもこれも、日々解脱者として精進している私のおかげであろう。うむうむ。神のお告げだ。神の預言だ。
一体全体、その天啓とはどんなものかというと、そもそも神はこの世界で「何をやろうとしているのか」ということを、僕たち私たちはどうも壮大に誤解しているに違いない、ということなのだ。
どうやら、元々からボタンを掛け違えていて、僕たち私たちは、「神とこの世界」について勘違いをしているらしい。
それは、どういうことかというと、
『神はこの世界を創造して、人類や生きとし生けるものを良い状態にしたがっている』
という、そうついつい考えてしまう、過ちのことである。
僕たち私たちは「神をおのずと良きもの、良きことを望むであろうもの」と想像しているが、そのイメージが最初から間違っていたとすれば、世界のつじつまは全部まるっとごりっとぴったり合うのである!
つまり、この天啓は、神がワタクシ武庫川にゆだねた預言のようなもので、これこそが世界と宇宙の真実と言うわけだ。
しかしである。ここで「神は善ではなく、実は悪だった」といった話をしようとしているわけではない。
これまた勘違いを招きそうだが、戦争や災害や疫病を広げているのは、「神が悪であって、人類や生命を傷つけてやろう」としているわけではないのである。
もし善なる神が存在するとすれば、「この世が良い方向へ行くように」とその意志を地球に反映させるだろう。
もし悪なる神が存在するとすれば、「この世が悪い方向に陥るように」とその意志で地球に災いをもたらすだろう。
そう2つの神を仮定した時、実際現実に起きているのは悪いことが多いので、それをそのまま当てはめれば「神は実は悪い奴だ」ということになる。
(実際、神をそのように定義する宗教や思想もある)
ところが、人類は、どうしても良き方向へ行きたがるベクトルを持っており、できるなら「良き」ほうが望ましいと思っているので、そのつじつま合わせのために、神の姿を歪めてしまった可能性があるのだ。
そのつじつま合わせの説は
「神はもともとは良き存在で、良きものとして地球や宇宙を作ったのだけれど、そこに悪が現れたり、悪神が惑わすので、いったんは悪が蔓延るけれど、最終的には神が良き状態に戻すだろう」
というものである。いわゆるハルマゲドンとか、天国とか、あるいは終末思想とか、そういうものは、こうした説に基づいているわけだ。
これらの説では「今は宇宙や地球の状態は悪いけれど、最終的には良くなる」ということを希望として、宗教や教義が成り立っているのである。
神が、最後にはちゃんとしてくれるはずだという希望的観測だ。
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まあ、ここまでは、既存の宗教やら哲学やら世界政治のおさらいである。
ところが、今回神様がズビビビとビームを出して、解脱者武庫川の脳みそに直接送り込んできた天啓=すなわち真の答え合わせ、はちょっと趣きが違う。
神様はたしかに、宇宙を作ったり、物理法則を設定したけれど、その設定の内部では、生き物や物質や人類は、意外と自由に動くことができるという。
原子や電子が回ったり、アリンコから人類に至るまで、けっこう好きなように動き回ったりできるように、物理法則は設定されているけれど、その内側では自由にふるまうことができるのがこの世界なんだよ、ということである。
さて、神様だ。神はその世界の外側から見ていて、特に何もしない。
善でもなければ悪でもなく、「物理法則」というフォーマットを作ってその上に「フリー」な存在をパラパラとばらまいたのである。
そのフリーな存在は、環境に合わせてこれまたけっこう自由に変化することもできるようになっているから、ウイルスは変異するし、人は変わることができる。鉄鋼石が車になったりもするわけだ。物理法則の定義に外れない限りは、フリーなのだ。
『神は、何もしない』
ということが、中間まとめ大事なテストに出るポイントである。
君臨すれども統治せず、みたいなイギリス女王っぽい存在が、神である。
創造すれどもほったらかし、なのが神なのだ。
あるいは「神は最初から最後まで中立だ」とも言える。システムだけは作ったけれどね。
そうすると、どういうことが起きるか。いや、現にこの世では何が起きているか、じっくり思い起こして見よう。
いきなりだが、蠱毒(こどく)という恐ろしい術があるのをご存知だろうか。古代中国発祥の呪術だそうだが、やばい毒虫やら毒生物をひとつの壷(ツボ)の中に放り込み、互いに共食いすることで、最後に残った奴は最強の毒を持っている、という恐ろしい術である。
古代中国ではこうして得られた毒を、殺人に用いたという。
さて、ひるがえって地球である。
地球上のすべての物質あるいは生命は、地球というツボに放り込まれている。そして現実問題何をやっているかというと、それぞれが「自分の自由なり、自分の権利なり、自分の生命の最大化」を求めて相争っているわけだ。
つまり、僕たち私たちは蠱毒を作るときのゲジゲジやらムカデやらドクガエルである、ということなのだ。
自由でフリーであることが許されているので、内部にいるゲジゲジたちは、ついつい自由に振る舞おうとする。そうすると、互いの利益(それぞれの生命の最大化)は確実にぶつかり合い、カチ合うので、争いが起こる。時には相手を殺してしまうまで、それは激化するだろう。
その時、神は壷(ツボ)の外側にいるので、黙って見ているだけである。特に何もしない。
このように考えると、
◆ 神がこの世界を創造したこと
◆ 戦争や争いが絶えないこと
◆ 疫病(ウイルス)が頑張ってしまうこと
◆ 災害が起きてしまうこと(地球がフリーダムに動いていること)
は、すべて普通につじつまが合うことに気づくだろう。
別に神は善でも悪でもないし、わざと悪をはびこらせようともしていないことがわかる。
あるいは逆に、べつに良き状態にしてあげたいとも思っていないこともわかる。
すべては「壷の中で、虫たちがそれぞれ勝手にやっていることの集合体」なのだ。結果として、物質や生命はカチ合い、ぶつかり合い、悲劇が起きているのである。
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さて、蠱毒の場合は「最終的に最強の毒を得る」という明確な目的があったが、神の場合はそんなことも別に思っていないだろう。
たとえばプーチン氏が核戦争を起こしたとして、バイデン氏が核で応戦したとして、地球上がすべて核汚染されても、それでも生き延びた人類こそが次の楽園で新たな人類となるのだ!ふははは!なんてことは別に考えていないと思われる。
もしほんとうにそんなことが起こったら、それこそ蠱毒で、生き残った人類はスーパーサイヤ人みたいになっているかもしれないが、そんなのが生き残ったからと言って、世界は幸せになるとは思えない。
やべえやつ、つええやつが、再び争いをはじめるだけであろう。たぶん。
では、神はどんなことを考えているのか。壷を創り、その中に生きとし生けるものを放り込んで、それがどうなるだろうと思っているのだろうか。
結論から言えば、「神が考えていることはわからないが、その壷の中で生きとしいけるものが幸せになる方法は、一つしかない」ということだけはわかる。
たぶん、それが、究極的には神のねらい、なのではないか、とズビビビとわかったのである。神は中立だが、「答え合わせの答え」はちゃんと一つだけあるのだ。
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ここで、もうひとつのたとえ話をしよう。
有名なお話だ。
芥川の「蜘蛛の糸」は、まさしく壷の中に放り込まれたすべての生きとし生けるものと似ている。
さすがにこちらは「神様」ではなく、「仏様」で書かれているが、似たようなものである。仏様は、まるで蠱毒のような「地獄」を設定し、そこに悪人たちを放り込んでいる。
さて、どうするか。
さて、どうなるか。
舞台は地獄であるから、そこから脱出することが「善である」と考えて差し支えない。そこで、仏様は蜘蛛の糸を一本だけ垂らしてくれる。
ここから先は知ってのとおり、蠱毒の地獄がはじまるわけだ。すべての罪人が一本の蜘蛛の糸を巡って争い、蹴落とし、ぶっちゃけ「最後の一人」の座を巡って戦うことになる。
我も我もと糸にしがみつくから、結局糸はぷっつりと切れてしまって、全員が滅びてしまう、というオチの物語なのである。
もし、糸を上り切ることができれば、そこは壷の中ではなく、極楽であったらしい。神は極楽のチャンスを与えたのだけれど、壷の中で互いに争うことを止めない罪人たちは、結局地獄のままであったとさ、ということだ。
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最初の蠱毒の話と、蜘蛛の糸の話は、そっくりそのまま僕たち私たちの世界に置き換えることができる。
神は特段、壷の中に介入してはこないのだが、たった一本だけ蜘蛛の糸、つまり人類がどうあればいいのか、というヒントを垂らしているのである。
それは、今まさに起きている世界情勢、戦争の話でもまったく同じだ。
神が垂らしている一本の細いヒントとは、
「自己の生命、自己の利益の最大化をやめて、協力しあうことだ」
というものである。これは、芥川の蜘蛛の糸とまさに同じテーマである。
国家間でも個人間でも同じである。
蜘蛛の糸を上がる時、おそらく一人ずつであれば、全員が上れただろう。しかし確証はない。確証はないから信じるしかないのだが、それを信じて協力しあうことを止めなければ、極楽へ行ける。
すべての国家が、自己の利益の最大化を諦めて、わずかに我慢仕合い、協力し合うことができれば、平和は維持される。互いを信じるしかない。
すべての人が、自己の利益の最大化に執着せず、協力しあうことができれば、ずいぶんと生きやすく、暮しやすくなるだろう。
ウイルスとの戦いも「全面ロックダウン」ではうまくいかないことが中国で露呈している。ウイルスとわずかに妥協して共生せざるを得ないのだ。
そして、これらについて大事なのは「神は何もしない、何もしてこない」ということである。「協力しあうという方法があるよ」というわずかなわずかな細い蜘蛛の糸を垂らしくれているだけで、それ以上でもそれ以下でもないのが、この世界なのだ。
だから、我々壷の中にいる虫ケラどもや、罪人どもが、内部で協力し合わない限りは、外からの助けは期待できないのである。
つまりは、最初から最後まで「我々一人一人が、どう生きるか」によって、世界の終着点は変わってしまう、ということなのだ。
神はそれを、ただ黙って見ているのである。創世記の時代から、未来永劫、ただ黙って見ているのだ。
だからこの世界が「良きもの」となるのか「悪きもの」となるのかは、実は神の責任ではないし、悪魔の仕業でもない。
壷の中にいる僕たち私たちが、「どうしたいか、どうするのか」によって良くなったり悪くなったりするのだ。
それはたとえば、プーチン氏のようなたった一人の言動によっても、大きく変わる。そして、一国の指導者でなくても、あなた一人の言動によって、あなたの人生や、あなたの周囲は大きく変わるのである。
神はそれを知っている。だからこそ、私の脳みそと指先を使って、この文章を書かせているのである。わずかな蜘蛛の糸の代わりとして。
(おしまい)
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