シン・弱者論6 おわりに 〜すべての感情労働者が報われるために〜


 6回に渡って考察してきた「新しい時代の弱者論」も、いよいよ最終まとめということになるが、これまでの話を通して、

「職務上、いろいろなもやもやを抱えていた人たち」

が、少しでも納得したり、すっきりしてくれればこの考察が価値あるものになったのではないか、と考える。

 つまり、

すべての「感情労働者」への救い

を提起したいのである。


 感情労働者は、これまで、自分が「持てる側(提供する側)にある、強者である」というその一点をもって、

自分の感情を殺して、弱者(被提供者)の要望に沿った行動をとる

ことを仕事としてきた。


 看護師、介護士、カスタマーセンター、教師、保育士、カウンセラーなど、感情労働に従事する人たちは多く、そしてその大半が

「自分の感情を毀損すること」

で報酬を得てきている。

 これは、人の心身にとって不健康なことであり、それゆえに多くの従事者がその心身を壊して、その後の人生に悪い影響を及ぼしていることは、すでに多くの事例で明らかになっている。

 しかし、そうした問題がわかっているのに、それに対しての有効な解決策や施策がいっこうに開発されずじまいになっているのは、大問題ではないだろうか。


 感情労働者は、「強者から弱者への支援」という形を取ることが多いため、必然的に、弱者を「否応なく受け入れる」ことが求められてきた経緯があるが、「シン・弱者論」をベースにすれば、そこに

「互いに誠意と共感があるか」

という条件が発生する。

「感情の提供は、誠意ある間柄にのみ、成立する」

のだとすれば、敵意に「感情を押し殺して相(あい)対する必要」はまったくない。(もちろん互いに暴言を吐きまくる必要もないわけだが)


 敵意や悪意がある人間には、まったく別のアプローチを取るか、悪意や敵意を尊重するがゆえに、のたれ死んでいただいてかまわないのだ。


 よくよく考えれば、交渉ごとの基本は、互いに向かい合う気持ちが存在するかどうかがスタートである。これは当たり前のことだ。

 問題が起きて立腹することもあるだろう。しかし、解決にむけては、立腹しても誠意あるやりとり、節度あるやりとりが前提になるのは、当たり前の話である。

 だから、刑事事件の裁判において、被害者の家族は

「おまえこそぶっ殺してやる!」

なんて被告に向かって言ったりしないのだ。思っていても、節度を持つのは、近代社会の人間関係の基本的な、当然の約束事だからである。

 これは弱者の誠意そのものである。


 感情労働は、自分の感情を切り売りする行為ともなりかねないが、それに対して顧客やサービスを受ける側が誠意ある気持ちをもっていれば、(感謝などの表現によって)、心身を切り刻むような苦痛にはならない。

 しかし、そこから顧客の誠意を除外すれば、差し出した感情はナイフで切り裂かれることになる。

 だからこそ最低限の前提条件としての「誠意と共感」は、重要なカギなのである。


 そして、最終的には、「誠意のない弱者」を正しくジャッジメントする機能のあり方も議論されねばならないだろう。

 感情労働者の場合、多くはその上司が部下をなだめる形で、「誠意のない弱者(顧客)」を善としてジャッジする場面が多かった。

 それゆえ多くの感情労働者は、善と悪の線引きの揺らぎによって、心を病んでゆくのであるが、「誠意」は一定のジャッジメントを必ず必要とすることは、大切な要素である。


 これも平たく言えば、「誠意がなく、共感がない一方的な弱者には、サヨナラを申し渡す」という、ジャッジが大切だ、ということだ。

 そして、感情労働者自身がその選択を行った場合は、(故意に悪意をもって相手を除外するようなことを除けば)、上司はそれを追認するという公正さも、必要になるということである。


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 さて、「誠意と共感」を持って臨むことは、当たり前のことであれば理想的だが、実際にはなかなかできない。だから社会において一定の共通理解が必要なのだが、逆に言えば、これが浸透すれば、もっと多くの社会問題が解決するかもしれないと考える。

 たとえば、ツイッターの書き込みひとつにしろ、それを書く前に、

「そこに、誠意があるのか」

「そこに、共感があるのか」

ということを一瞬でも自問すれば、多くの書き込みは書かれずに済むだろう。

「これは誠意を持って、真摯に訴えたいことだ!」

という書き込みは当然あってしかるべきだが、誠意と共感を失った書き込みは、たいていの場合、そこには「悪意」しか残っていないだろう。


 しかし、私は解脱者なので、「ツイートは”誠意がない者”は、書き込んではいけない」と道徳を説くつもりはない。

 書き込みたければ、書き込んだってかまわない。

 彼には「一人でのたれ死ぬ権利」があり、「誰からも手を差し伸べられない権利」があるのだ。

 そして、いつか死ぬ。

 私はそこに尊厳を抱いて念仏のひとつでも唱えるだろう。

 そんなやつは朽ちればいいのだ。

 多いに認めよう、野武士のように果てよ、と。


(おしまい) 

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