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シン・弱者論5 〜弱者の尊厳〜


 前回は「のたれ死にする権利」という強烈なキャッチコピーを用いて、弱者が強者の支援を受ける際において「それを拒絶する権利がある」という話をした。

 そもそもは、強者と弱者は「誠意と共感」という共通理解がないと互いに交われないということからスタートした考え方ではあるが、結果として

「弱者である権利」

のようなものも存在することが見えてきたのである。


 弱者であり、持たざる者としてのたれ死んでゆくことは、可哀想なことではなく、尊厳死である、という考え方は、武士道に似ている。

 人生、社会生活という戦場で、互いに斬り合って、勝者となる武士もいれば、敗者となる武士もいる。敗者である武士は弱者だが、勝者はそれを嘲り笑うことをせず、誠意を持って「殺す」のである。

 あるいは敗北を覚悟した者は、自ら死ぬ。彼はいわば自決権を持っている。強者から「命ばかりは救ってやろう」という場面も時にはあるだろうが、弱者は「いや、武士の情けがあれば、このまま潔く死なせてくれ」ということもあるだろう。

 のたれ死にを肯定することは、こうした武士道に似ている。そこには弱者の尊厳と権利を尊重する姿勢がベースにあるというわけだ。

(へんな話だが、ここにも実は勝者と敗者の間に、誠意と共感が存在することが見て取れる。一方は無残に死んでゆくのに、である)

 

 余談ながら、近代戦争が「人の死」を軽んじるようになったのは、こうした誠意ある殺し合いが失われたからだという説もある。戦国時代の戦のように、「誰が誰と相(あい)対し、かつ戦っていかに死んだか」ということがはっきりしていると、互いに誠意が失われることなく、「俺が誰それを殺した」という念を抱いて勝者はその後を過ごすことになる。

 ところが、機関銃が発明され、爆弾が発明され、航空戦が始まって戦いが近代化されると「誰が誰に殺されたか、まったくわからない」時代が始まり、そこには「誠意と共感」が入り込む余地はなくなってしまった。

 引き金を弾けば数十人の敵がなぎ倒され、スイッチをおせば数千人が焼け死ぬ状況で、「殺す責任感」も消えてしまい、「敵を弔う」ことすらイメージできなくなった、というのである。


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 さて、話を巻き戻そう。ここでは「弱者として生きる権利」や「弱者の尊厳」について考えたい。

 現代社会では高度に文明化されており、かつ日本をはじめとする先進国では、「一定以上の人数の人たちが中流を経験した」という歴史を持っている。

 この日本人の大半が「中流」を経験した過去というのはやっかいである。それこそ戦国時代なら、戦国大名がいて、戦国武将がいて、雑兵がいて、百姓がいて、それぞれが精一杯戦い生き抜いて、「勝ち負けというジャッジメント」を受けた。その結果、「勝者」「敗者」「侍」「農民」などが結果として振り分けられ、そのまま身分制度のような形で固定化された。

 そのため「武士は武士としての生き方」がある程度規定され、「百姓は百姓としての分」があり、それらは領域を越境して「のりを越える」ことはあまり起きなかった。

「うちは百姓だから仕方ない」でもあるし、「武士たるもの、そうあるべきだ」ということが決まっているので、それぞれの分相応が見えていたわけである。


 ところが、市民平等が原則の社会では、「分相応」は最初から最後まで存在せず、「個人が努力した結果、どのような暮らしぶりになるかは無限大」ということが生じている。なので、大金持ちになる可能性もあれば、無一文になる可能性もあるし、会社役員になる可能性もあれば、ひきこもりとして終わる可能性もある、ということになった。


 そうすると、人の人生はどうある「べき」か、という問いは、必然的に理想化されてしまう。その理想化は、いわゆる「中流社会」として実現したし、実際に多くの人がそうなってしまったのだ。

「誰もが大金持ちになり、会社役員や創業者になり、成功する」

という理想像は上すぎてナンセンスだと誰もがわかる。

「誰もが労働者としてこきつかわれ、搾取され、のたれ死んでゆく」

というイメージも、下すぎて除外されるだろう。

 そこでいう「普通」の理想像は、

「誰もが結婚して、家庭をもって、団地もしくは一戸建てに住み、車は1台くらいあって、歳を重ねるごとに少しだけでも役職が上がって、息子や娘が結婚して孫に囲まれて死んでゆく」

というイメージが、多くの人が経験する主流なものとして確立したのである。

 一億総中流社会では、多くの人がこのイメージに当てはまってしまったので、ここが基準になっているが、これからの未来はこうならないことが判明している。

「結婚できない、こどもを持てない、不動産や動産をどこまで所有できるか怪しい、役職は上がらない、孫はいない」

可能性が、格段にアップしてくるのが、これからの未来である。


 けれども、今だ中流イメージは引きずっているので、私たちはいわゆる「中流イメージに”未達”の生活」は、「下位である」と感じる。クレヨンしんちゃんの一家は春日部に一戸建てを持っている役職付きサラリーマンのひろしが支えているが、ネット民から見ての彼の立ち位置は今、

「”普通”から、”上位”へと移行している」

真っ最中であるという。ひろしは「勝ち組」になりつつあるのだ。


 こうした時代の変化によって、これから「分相応」が復活するかもしれない。現時点では、「勝ち組」「負け組」ということばで表現されていて、「中流イメージに未達」の者は負けたのだ、と解釈されているが、標準のものさしが下がるので、

「俺の家柄は派遣社員の家柄なので、まあ未来も貧しいままだよな。そういう分相応の生活で仕方ないよな」

とか、

「うちは親戚もみな賃貸だし、サラリーマンさまとは育ちが違うよな」

とか、

「団地住まい文化で、同僚はアジアからの出稼ぎ組ばかりだけど、まあ、人生そんなもんだよな」

とか、そういう言説が増えることになる。そして、最終的には

「それでいいんじゃない?そんなもんだよね」

という言葉が定着するのだ。


 現時点で我々が

「田園調布の人たちは、やっぱ違うよね」

と言うような感じで、

「サラリーマン家庭はやっぱ違うよね」

と言い出すということだ。


 そんな時代がやってくると、「派遣社員の分相応なる尊厳」とか「団地住まいの尊厳」とか「賃貸暮らしの尊厳」とか、そういうことを認めざるを得なくなる。いやむしろ、早くその尊厳を認めてゆかないと、社会が動揺するだろう。

 現時点では「中流イメージ」を引きずっている。それは間違いない。しかし、現実はそれが叶わない。だから、アメリカでも白人男性は社会的に疎外されていると被害妄想を持つし、インセルが増えてゆくのである。

「尊厳ある弱者」

を早く認めて共通認識を持ち、彼らが別段「可哀想な、下位の存在」ではなく、「普通なのだ」とお互いに思っていかないと、社会が崩壊するのである。

「ひきこもりの尊厳」

「未婚の尊厳」

「子なし、孫なしの尊厳」

といったものを、誠意を持って認めなくてはいけない。そうではなく、「理想化された中流イメージに未達のもの、そこへ到達すべきもの」として無理やり手をひっぱったり、お尻を叩きまくれば、おそらく日本も世界も崩壊するだろう。

それは「強者のおごりたかぶり」でしかないからである。


話はちょっとズレるが、

https://president.jp/articles/-/50693

皇室を離れる某皇女にも「不幸になる権利がある」という記事が出て、ちょっとビックリしたが、それくらいのショッキングな意識改革が、これからは「至極当然」になってゆくだろう。


 「不幸になる権利」とはつまり、自分の意思決定によって、「どんな将来が待っていても、周囲はとやかく言わない」という誠意と同義だからである。


 こうした言葉は、一見すると「自己責任」にとても似ている。どんなに落ちぶれようと「自己責任だ」ということと、「弱者の尊厳」は、似た概念に感じるかもしれない。

 やはりそこで違いが生じるのは「自己責任」ということばには「誠意がない」ということではないだろうか。

「あなたの自己責任でしょ」

ということばには、強者の関わりが感じられない。しかし、「弱者の尊厳」には、まだ「強者のノブレス・オブリージュ」は生きている。だから強者は、誠意を持って弱者に接していいのである。

 これは、被災地に一方的に送りつけられる義援金や支援物資に似ている。

「自己責任」で片付けられるなら、被災地で起きたことに対して、周囲は預かり知らぬことで、災害に遭遇したのも、自己責任ということになる。

 しかし、多くの人は被災地に「支援をしたい」という誠意を持つし、そこに見返りを求めることはない。

 だからといって被災地の人間は

「早く支援物資を送りやがれ!我々は困っているんだ」

なんてことは思わないだろう。被災者はそれでも支援に対して誠意と感謝を忘れない。こういう関係が「強者の誠意、弱者の誠意」を意味するのである。

 だから、”誠意ある関係”は「自己責任」ということばとは、ずいぶんと様子が違うのだと、理解していただきたい。


(つづく)

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