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忘れないで”教訓の地震”~福岡県西方沖地震~

3月に起きた印象的な出来事といえば、やはり「東日本大震災」が頭に浮かぶ。今年で10年という節目を迎えたから尚更。そして私には、決して忘れる事の出来ない地震がもう一つある。2005年3月20日10時53分に発生した「福岡県西方沖地震」だ。

地震が起きなくて当たり前だった

当時私は福岡県に住んでいたが、この西方沖地震が起きるまで福岡で地震が起きる事を全く考えていなかった。そこには”いつか”とか”かも”すら存在しない。本当にゼロだった。「ここには地震が存在しない」と根拠もないのに発生するその瞬間まで信じ込んでいたのだ。

その日は丁度日曜日で、春の訪れを感じさせる穏やかな朝だった。9時過ぎに目が覚め、朝ご飯のパンを齧った後そのままテレビに目を移す。平日に録画したままの番組を消化していく、休日らしいのんびりとした時間。一番組が終わりに近づいて来た時、突然周囲が「カタカタ」と音を立て始めた。

「ん?」と体と脳が異変を感じた直後、すぐに揺れが大きくなる。そこで「地震」だと理解し、咄嗟にテーブルの下に身を隠す。体は動いたが、頭の中がは完全に真っ白になっていた。家が、揺れている。動くはずのない自分の家の床が、電車の連結部みたいに動いている。地面が「ゴゴゴゴ…」と音を立てている。ちょっとだけじゃない、大きな揺れがいつまでも止まらない。全てがあり得ない事だった。隣の部屋から避難してきた弟と一緒にテーブルの下にうずくまり、顔も上げられずひたすら床に敷かれた赤いラグを見つめていた。地鳴りと共に物が次々に落ちていく音、別の部屋から叫ぶ母の声が聞こえる。揺れた時間は20秒程度と言われているが、体感的には数分間揺られていた様に感じた。

揺れが治まった後無事を確認した私たちは、テレビをNHKに切り替え、速報を見る。しばらくして震度が発表され愕然とした。表示される、見慣れた九州北部の地図。自分達の住む福岡地方には「6⁻」の文字。震度6弱、巨大地震だ。ショックと信じられないという思い。しかしすぐに余震が発生し、これが現実である事を私に嫌という程突き付けてきた。緊急地震速報もないし、リアルタイムな情報を即座に手に入れられない時代。余震に揺られながら頭の中に教科書で見た「阪神淡路大震災」の光景が浮かぶ。倒壊した高速道路、大規模な火災。福岡の街もあんな風になってしまっているのだろうか。とにかく怖かった。

上記リンク先にて当時の映像を見ることができます。(強い揺れの映像があります)

地震への備えがなかった

詳しい情報はない今、問題はこれからどうすべきか、という事だった。恥ずかしながら地震が起きたら机の下に隠れるとか、ガス漏れに気を付けるぐらいの考えしかなく、揺れが治まった後の行動に関して何の備えもなかった。このまま家の中に居るべきなのか、外に出るべきなのか、どこかへ避難するべきなのか…。仕事で中心部の天神にいる父と合流しようという話になり、準備を進めていく。実は自分達のいる地域よりも天神の方が被害は大きく、その後繋がった父からの電話でその事実を知り、そのまま待機となった。
そもそも交通機関がマヒしてしまった時点で天神に行く事は出来ないのだが、それを判断する余裕もなかった。

大災害にならなかった幸運

かなり揺れたものの、家の中で家具が倒れたり破損する事はなかった。恐れていたビルや高速道路の倒壊や火災の発生もなかった。最も被害の大きかった玄界島は全島民避難となっていたものの、当日中に避難は完了していた。
都市への直下型地震は「阪神淡路大震災」以来だったが、あそこまでの大災害にはならなかった。本当に幸運だったと思うと同時に、同規模の災害になっていたらと思うとぞっとする。誰もが福岡で大地震なんて起こるはずがないと思い込み、個人的な対策もしていなかった。この西方沖地震は『地震はいつ、どこで起こるか分からない』と私たちに教えてくれた。これをきっかけに福岡県民全体で防災意識がぐっと高まり、16年経った今もそれは変わらない。同時期に発生した「新潟県中越地震」や最大震度7を観測した「東日本大震災」「熊本地震」と比べると語られることの少ない地震だが、『地震はいつ、どこで起こるか分からない』『日頃から防災意識を高めておかなければならない』ことへの教訓として、ぜひ福岡県だけでなく日本全体で語り継いでいって欲しい。


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