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【コラム】私はなぜ川へ繰り出すのか

どうも、変化にもっと優しくなりたいむじょうの前田です。

私事ですが、渓流釣りが趣味でシーズン中は月に1.2回のペースで東京近郊の渓流へ繰り出しています。

もちろん海の釣りも好きですし、堤防の釣りもします。友人と行く時は海の方が多いかもしれません。それでもなぜか、1人で釣りに行く時間があれば、必ず渓流に足が向きます。

その理由について考えてみました。

まず、渓流釣りは想像以上に危険です。川へ降りるために道なき道を進んでいく事もしばし。滑落や落石、マムシや熊など、注意を向けるべき危険がゴロゴロあります。

それでも、山の谷間を流れる川を目がけ、清らかな流れから顔をだす美しき渓魚を求めて歩みを進めます。

別にスリルを求めているわけではありません
かといって、危険を犯してでも魚と出会いたい?と言われるとそんなこともない気がします。命の方が大事です。

ではなぜ私は川へ繰り出すのか。

リスクから考えると明らかに合理的な行動ではないため、やっちゃう理由から考えてみます。

やっちゃう理由①:自然に還りたい

渓流の良さはなんと言っても自然です。
綺麗な川。深い山。大きな岩。数々の虫。動物との出会い。
日常的にアスファルトの上を歩いている私にとって、平坦ではない山道や岩だらけの河原はとても歩きづらいです。この前まで通れた道が倒木で通れなくなっているなんてこともよくあることです。台風が1つくれば川の渓相は変わります。

常に変化し続ける自然と対峙することは、生温い日常から飛び出し、生命を喜ばせる営みのように思います。
無性に渓流に行きたいという衝動に駆られることがあるのは、私の本能なのかもしれません。

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やっちゃう理由②:お魚と話したい


恋は盲目といいますが、それに近い衝動かと思います。魚は言葉を話しません。故に、意思疎通が難しいです。その難しさが、私を魅了しています。意思疎通が難しいだけであって、不可能ではないところもまた心をくすぐる要因です。

私は「毛鉤」という、針に鳥の羽などを巻き付けて虫を模した擬似針を手作りし、魚を釣ります。

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川に立ち、その日の虫の活動に目を向けます。


「今日は羽虫が飛んでるから、小さいのがいいかな?」

「アリが活発に出歩いてるから、アリを模した毛鉤がいいかな?」

など、お魚の今日の気分を予想しながら釣っていくのです。

反応が悪いと、違う毛鉤を使ってトライします。
この営みが私にとっての魚とのコミュニケーションです。
日々、ものを言う人間とばかり過ごしているため、非言語なコミュニケーションを望んでいるのかもしれません。


やっちゃう理由③:お魚と出会いたい

なんといっても渓流魚は美しいです。清らかな流れの中から私の毛鉤に飛びつく瞬間は興奮を超えて感動です。美しい魚体は写真をご覧ください。

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最後に

書きながら思ったことがあります。死と出会うことで生の尊さを再認識できるという仮説の元、棺桶写真館という棺桶に入る体験イベントを不定期開催しています。棺桶はあくまで「死と出会う」の1つのメタファーであり、出会い方はなんでもいい、ということです。山に行き、獣を警戒しながら歩くことも、死を意識する瞬間です。自分ではコントロールできない自然へ足を踏み入れ、そこで「生かされている」という実感を持つことが、生の尊さの認識にもつながっています。それを都市でも感じる上で、棺桶が活躍するかもしれません。
そんなことを考えていました。

それでは今日はこのへんで!最後までお読みいただきありがとうございました!

棺桶写真館のご予約も承っております。
10月29.30.31日の3日間、渋谷の100BANCHにて!
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