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【コラム】「社会課題解決」が持つ暴力性

どうも、変化にもっと優しくなりたい、むじょうの前田です。

今日は「課題解決と余計なお世話は紙一重」という話をします。

世の中には社会起業家と言われる人がいて、事業を通じた社会課題の解決を目指しています。私の尊敬する先輩起業家にも「社会起業家」という看板を背負っている方が多くいます。皆さん素敵な方ばかりです。

私自身、株式会社むじょうとNPO法人ムラツムギの代表を兼任していることもありインタビュー記事などで「社会起業家」というラベルでご紹介いただくこともありますが、その肩書きはあまりしっくりきていません。

社会起業家の使命とも言える「課題解決」を志すスタンスが自分のやり方とマッチしていないような気がします。

今日はその違和感を紐解いていければと思います。

課題があるから解決する、という営みの必要性は理解できます。高校時代、男子寮で生活しており日々、課題解決の連続でした。生活者である寮生からあがってくる「課題」について考える事は苦になりません。

一方で、寮務の先生や生活指導の先生に「お前らの課題は〇〇だから、何とかしなさい」と言われると、「僕達が一番に解決すべきはその課題じゃない」とか「それは課題ではない」など、屁理屈を並べて向き合おうとしませんでした。

これはただ反抗しているのではなく、自然な反応であったと思います。生活に根ざした課題が本当の課題なのに、第三者が勝手に「課題」といってしまうという構図です。これは時に暴力性を伴います

例えば空き家。
空き家問題と言われますが、景観・防災・防犯などの外部不経済を切り取って問題というラベルを貼っています。
一方で、家の持ち主にとっては「大事な財産で思い出が詰まったハコである」という場合もあるでしょう。

なんとかしないといけないと思っていても、解体するにもお金がかかり、売るにも売れない。親が汗水流して建てた家を簡単には手放せない。物理的、心的なハードルがある事は確かです。

そういった価値観を持つ方に「あなたの家は空き家だから問題です」と言った所で何も起こりません。むしろ、言われた側は傷つくでしょう。

社会(公益)にとっての「空き家問題」と、空き家の所有者(私益・私情)にとっての問題は論点が違います。社会の側からのみ語られる「問題」には暴力性が含まれるのです。

もちろん、その暴力性を引き受けるというのも1つです。私が尊敬する社会起業家、フローレンスの駒崎さんに「課題とラベリングする事の暴力性とどう付き合っていますか?」と質問させていただいたところ、「引き受けている」とご回答いただきました。その覚悟を持って、自分の命を捧げている駒崎さんらしい言葉だと思います。

そろそろまとめに入りますが、このnoteを通じて伝えたいのは、課題解決という言葉を使うことは、誰か・何かに対して「課題」とラベリングするということです。

課題解決と余計なお世話は紙一重です。
勝手に「課題」とラベリングせずに、一歩立ち止まってポジティブに捉えられる側面にも目を配ってみるとか、当事者の合理性に想いを馳せてみるとか、できる事は色々あるはずだなぁと。

そんなことを考えています。

最後までご覧いただきありがとうございました!

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