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沈黙 ーサイレンスー

真っ暗闇。数秒の静寂。神の声を聴こうとするじぶんがいる。観客それぞれが神に問うているのではないかとさえ感じる。とてつもなく大きな空間に放り出される。と、同時にカラダは座席に在ることも理解している。
エンドロールラストの“沈黙”で涙のダムが決壊した。堰を切ったように溢れ、こぼれ落ちる。嗚咽が止まらない。しばらく席を立てなかった。なにかすごいことを知ってしまったような気がした。

「目を開けて祈れ」

フェレイラ神父の言葉が耳に残り離れない。是非“目を開けて”観てほしい映画だ。

(以上は公開当時、映画館で観たときの感想)


昨日キチジローというワードが頭に浮かんだので、改めて『沈黙』のことを思い返してみた。

巨匠マーティン・スコセッシが、日本で迫害されたキリスト教司祭の苦悩を描いた『沈黙』は、彼の映画史上最もスピリチュアルな作品となった。

神は死んだのか。もしそうでないなら、なぜ神は沈黙を貫くのか。まるで人々が苦しんでいるさまなど何も見えない、何も聞こえないかのように振る舞うのか。マーティン・スコセッシの映画『沈黙』は、腹立たしいまでにつかみどころのないわずかな答えを引き出すべく、目眩がするような断崖に恐れずに飛び込み、深淵に潜り込んでいくような映画だ。


Rolling Stone Japan 編集部

敬虔なカトリック教徒として育ったスコセッシ監督は、以前にも『最後の誘惑』『クンドゥン』で直接的に、『ミーン・ストリート』『タクシー・ドライバー』『レイジング・ブル』『ケープ・フィアー』では暗に、流血描写をもって信仰というテーマに挑んでいる。このイエズス会の司祭の物語は、長きに渡り彼の情熱の企画と呼ばれていた(不適切な呼び名だ)。どういうことかと言うと、御年74となるスコセッシは、80年代後半に遠藤周作の『沈黙』(1966)を読み、以来ずっと本作の映画化に向け奔走してきたのだ。遠藤周作は日本のカトリック教徒で、17世紀の日本に命がけでキリスト教の布教を試みたポルトガルの宣教師たちの物語に深遠な何かを感じて、本作を書いたのだった。


Rolling Stone Japan 編集部

これが、スコセッシが描かずにはいられなかった精神的探求の旅路、いつまでも記憶に残る映画『沈黙』だ。主人公の司祭セバスチャン・ロドリゴを演じたのは、猛烈な生命力をたたえた瞳の俳優、アンドリュー・ガーフォールド。禁欲主義の聖人を思わせるやせ細った体のアダム・ドライバーが、もう一人の司祭フランシスコ・ガルペを演じた。彼らの真に迫る熱演のおかげで、かつての師・クリストヴァン・フェレイラ(リーアム・ニーソン)を探してアジアへ向かう若い司祭二人の旅路を、観客も追体験できるのだ。


Rolling Stone Japan 編集部

フェレイラは隠れているのか? 処刑されたのか? それとも結婚して、罪の意識に囚われながら仏教徒として生きているのか? 最後の可能性は、二人の若い司祭を絶望の淵に追い込んだ。そして、日本政府によるあまりにも未熟なキリスト教徒への迫害は、ロドリゴとガルペに衝撃を与えた。侍たちを牛耳っていた野蛮な領主たちは、隠れキリシタンたちを発見し、キリストが粗末に彫られた踏み絵を踏ませることに精を出していた。抵抗した者たちは、溺死、火あぶり、十字架への磔、わずかに首を切られ長時間かけて死に至る穴吊りなど、残酷な刑に処せられた。しかし、ジェイ・コックス(『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』)と共に脚本を書き上げたスコセッシは、そういった暴力描写にひたることなく、あくまで信徒を救うために踏み絵を踏まなければならなかった司祭たちの猛烈な苦悩を描くためにそれらを活用している。

この2時間40分の物語のテーマの根幹は、序盤にロドリゴが抱えていた疑念にある。この精神的探求に挑んだ映画が、マーベル・コミック以外の映画を滅多に見ない観客層に訴えかけるのは容易なことではないだろう。しかしスコセッシは、観客自身にそれぞれの感情や信仰、救済を思考してほしいと熱望する。そして物語後半、ニーソン演じるフェレイラ司祭が示した、神に対する強い信念と疑念に折り合いをつける覚悟。それは苦しみから逃れることではなく、人類とともに苦しみ抜くことを選んだ決意であり、特筆に値するものだ。


Rolling Stone Japan 編集部

スタッフ・キャスト全てのパフォーマンスが一流で、特に日本から参加した俳優陣は称賛に値する。特にキチジローを演じた窪塚洋介は素晴らしく、司祭の助けになりたい気持ちを持ちながら、保身のために裏切りの行為を繰り返す姿は、まるでキリスト教におけるユダのような存在だ。狡猾でウィットに富んだ残忍な宗教裁判官・井上奉行を演じたイッセー尾形は、オスカーノミネートの噂も囁かれるほど。3人のキリシタンの村人を、潮の満ち引きを利用して呼吸を奪い、水死させる水磔(すいたく)の刑に処したのも井上だ。美しさと恐怖が共存する『沈黙』のシーンの数々は、沈黙を続ける神に対し、自然界に宿る大いなる力の存在感を主張しているかのようである。


Rolling Stone Japan 編集部

苦境に立たされたガーフィールド演じる司祭は、キリストが彼に語りかける声を聞く。「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世界に生まれてきた」。それは幻聴なのか、慈悲心なのか、自己正当化の術なのか。スコセッシは、本作『沈黙』のことを「経験の声と戦う信念の必要性」だと語っている。そしてこの映画が、根本主義と宗教的思想が過激化しつつある現代社会と深い繋がりがあることに疑いの余地はない。この複雑なテーマに確固たる思いで挑んだスコセッシは、安易に説教じみたり感傷にひったりすることで、この映画の辛辣さを軽減させることを拒否している。天国と地獄、残酷な自然と神の恩寵、そこに横たわる信仰の確立が、スコセッシが見つめる景色なのだ。

スコセッシが少し行き過ぎた思いを込めたことは否めない。しかし、夢想家というのはそういうものだ。この映画の運命は、観客の心を開けるか否か、そこにかかっている。おそらく巻き起こるであろう数々の議論を含め、それは簡単なことではないだろう。しかし、映画という媒体がなせる謎めいた可能性を信じる人々が、『沈黙』を見逃すことはないだろう。そして巨匠スコセッシにとっても、この映画の製作は必要不可欠なものだったのだ。


Rolling Stone Japan 編集部

キチジローは、いとも簡単(そう)に何度も踏み絵を踏んでは懺悔する。ともすれば滑稽に映るその姿。だがその実、彼こそが誰よりも信仰心が厚いのではないかとも感じてしまう。

浅野忠信はキチジロー役のオーディションに落ちたが、どうしてもスコセッシ監督と仕事がしたくて別の役を掴み取ったとのこと。窪塚洋介のインタビューも興味深い。
(窪塚洋介も一度落ちてたんだね)


アタシはあらゆる宗教(というか宗教団体)が嫌いだが、なかでもキリスト教の「懺悔」システムが特に嫌いだし納得がいかなかった。「謝ったらすむんかい!」と長い間思っていた。
この映画を観てキチジローに感情移入したことで「懺悔」に少し寄り添えるようになった。

それでもやはり、アタシは誰かを崇拝することを好まない。

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