『メメント』~斬新な設定と古典的ジャンルの完璧な融合~
こんにちは。
今回は2000年公開の『メメント』(監督:クリストファー・ノーラン 主演:ガイ・ピアース)についての記事です。
時系列を遡りながらストーリーが進行するため、難解な作品として有名ですが、その構成のおかげで大変興味深い作品となっています。以下にあらすじと主要人物の紹介を載せておきます。
以下の文章は『メメント』に関するネタバレを若干含んでいるうえ、作品を鑑賞された方が読まれることを前提に執筆しています。物語がどういう結末を迎えるのかということについては全く触れていませんが、未鑑賞の方はせっかく読んでいただいてもわけのわからないことになると思いますのでご了承ください。
本稿の構成としては、まず『メメント』において特徴的なシーンである「白黒のシーン」が表現としてどのような意味を持っているのかということについて検討した後、古典的フィルム・ノワール作品の特徴を有する本作が、どのようにして他作品との差別化が図られているのかということについて、斬新な設定との結びつきという点から検討します。
1.白黒の映像が果たす役割
まず、本作を構成する特徴的なシーンの一つである「白黒のシーン」が果たしている役割について検討しましょう。
この「白黒のシーン」は、各場面が転換する間に挿入されており、一見すると直前の場面とは全く関係がなさそうなシーンであるように見えます。このシーンの挿入が本作を難解にさせる理由の一つではありますが、物語が終盤に近付くことですべての「色付きのシーン」以前の出来事であるということが分かります。では、なぜノーランはそれらの映像を白黒で表していたのでしょうか。
理由の一つ目としては、白黒の映像が過去を想起させるものだからです。いわゆる白黒写真や白黒映画を想像するとわかりやすいのではないでしょうか。我々がこれらを見たときに、過去の出来事なのだという印象を受けるのは不思議なことではないでしょう。『メメント』においても、白黒映像のこのような特性を利用し「過去の出来事だ」という印象を観客が直感的に得られるように仕向けられていると考えられます。そのため、複雑なストーリー構成の中でも「白黒のシーン」が「色付きのシーン」よりも前に起こったことだということに違和感を抱かず観ることができるのです。
二つ目の理由として、記憶の喪失、もしくは記憶の曖昧さを表現し、強調する役割があると考えられます。
あらすじで述べた通り、主人公のレナードは記憶を10分しか保てません。そのため、「白黒のシーン」は「色付きのシーン」に出てくるすべての場面のレナードの記憶から抜け落ちています。
レナードと異なり、記憶障害を有さない人々は10分前に何をしていたかということについて鮮明な記憶があると考えられるので、少し記憶の範囲を広げて検討しましょう。
仮に、あなたが3日前にとあるカフェを初めて訪れたとしましょう。その時に注文した料理や飲み物を覚えているでしょうか。これらを覚えていたとして、料理が盛られていた皿の種類や色はどうでしょう。ほかにも、自分が座ったテーブルやいすの詳細まで覚えているでしょうか。
3日前にあるカフェを訪れた記憶はあっても、そこで何を食べたか思い出せないというのは記憶喪失にかなり近い状態にあるということもできると考えられます。
このような記憶と同様に、白黒の映像ではその場にある物の形は写し出すことができますが、その正確な色までは表すことができません。このことから、記憶の喪失や、記憶の曖昧さを白黒映像を用いて表現し、強調していると考えられます。
2.1.古典的フィルム・ノワール
作品内の表現技法の話から離れて、ジャンルの一つであるフィルム・ノワールとしての『メメント』について検討しましょう。
フィルム・ノワールとは、1950年代に流行した悲観的な指向性を持った犯罪映画のことを指し、以下のような特徴を持ちます。
フィルム・ノワールの代表的な作品には、『現金に体を張れ』(スタンリー・キューブリック)や『上海から来た女』(オーソン・ウェルズ)、『めまい』(アルフレッド・ヒッチコック)などがあります。
ここで③のファムファタールについて定義しておくと、妖艶な姿で主人公の探偵を惑わせる危険な女性のことです。主人公は、彼女の魅力に打ち勝たなければ破滅させられてしまいます。
『メメント』も上記の特徴を備えた作品だと考えられます。一つづつ検討していきましょう。以下の番号は上記の番号と対応しています。
以上のことから、『メメント』は古典的なフィルム・ノワールであることが分かります。では、本作と1950年代のフィルム・ノワール作品との違いはどこにあるのでしょうか。
2.2.新感覚サスペンス
他の作品と本作との間にある決定的な違いをつくっているのは、本作におけるサスペンスを演出する方法の斬新さであると考えられます。
まず、サスペンスについて定義しておきましょう。本稿では、数々のサスペンス映画を手掛け、「サスペンスの帝王」と呼ばれたアルフレッド・ヒッチコックの説明に則ります。その説明とは、サスペンスを生み出すには観客と作品内の登場人物の間に情報量の格差を与えるのだというものです。
ヒッチコックが用いた例を使うと、①あるカフェで人々が談笑しています。②とあるテーブルに時限爆弾が設置されており、刻々と爆発の時間が近づいています。③観客は爆弾の存在を知らされますが、カフェの人々はそのことを知りません。④そのまま爆発が起こるのかと観客は緊張します。
この緊張こそがサスペンスです。そしてこれを創出するのが、観客は知っているが登場人物は知らないという情報量の差なのです。
話を『メメント』に戻しましょう。
本作では、時系列を現在から過去へとさかのぼることで物語が進行していきます。そのため、前の場面で曖昧であった行動の動機が、次の場面で明かされるということを繰り返しながらストーリーが進んでいきます。
一見すると、この方法では観客と登場人物(レナード)との間で情報量に差が生めず、サスペンスを創出することは不可能に思えます。なぜなら、観客もレナードと同じ情報を共有しており、両者とも等しく「知らない」からです。しかし、観客とレナードとの間に絶対的な違いが一つあります。観客は覚えている出来事であっても、レナードは10分おきに忘れてしまうのです。これを利用し、どのようなシーンの最中であってもレナードに忘れさせる(知らない状態にさせる)ことで容易に情報量の格差を作り出し、サスペンスを生み出せるのです。
事実、レナードがナタリーの家を訪れたシーンにおいて、ナタリーによって利用されようとしていることに気が付いたレナードがナタリーに暴行を加えるシーンがありますが、その際にけがを負わせたことを彼が忘れてしまい、結局そのけがを根拠にナタリーによって利用されてしまうというシーンがあります。この時、ナタリーのけがはレナードによるものだと観客は知っていますが、レナードはそれを知らないということに情報量の格差が確認できます。
また、時系列をさかのぼることで、レナードはその後の展開を知らないものの、観客はそれを知っていると考えると、ここにも情報量の格差があったことが分かります。
このようにノーランは、過去のフィルム・ノワール作品のように編集を用いたサスペンス創出を行っているものの、ショットだけでなく時系列に対しても編集を加えることで効果的にサスペンスを生み出しつつ他作品との差別化にも成功しているといえます。
3.最後に
最後まで稚拙な文章に付き合っていただき、ありがとうございます。
『メメント』は、そのストーリー構成によって難解な作品に仕上がっているということは本稿でも何度か述べた通りです。私の理解力では何度も巻き戻して前の場面を確認しながら観る必要がありました。このような作品を脚本から手掛けることができるクリストファー・ノーランという映画監督は、やはり天才なのだなと強く思わされました。一生ついていきます。
そしてこれは鑑賞後に知ったことなのですが、『メメント』には原作(原案)となった短編小説があり、それを執筆したのは監督の弟であるジョナサン・ノーランなのです。彼は脚本家としても活動しており、ダークナイト(2008)やインターステラー(2014)などの他のノーラン作品においても脚本を担当しています。恐ろしい兄弟ですね。
この天才兄弟コンビが今後も映画界を牽引し続けることは間違いないでしょう。キューブリックやヒッチコックに並ぶ監督としてノーランが称賛される日は近いかもしれませんね。
彼らが再び監督と脚本としてタッグを組んだ最新作『TENET テネット』の公開が待ちきれません。
参考文献
晃洋書房『フィルムスタディーズ入門』ウォーレン・バックランド著 前田茂/要真理子 訳
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