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『インセプション』~その孤独は夢か現実か、あるいは「めまい」がもたらす虚構か~

こんにちは。

今回は2010年公開の『インセプション』(監督:クリストファー・ノーラン 主演:レオナルド・ディカプリオ)についての記事です。

私はこの作品が本当に本当に大好きです。かなり前の記事では本作の魅力を語らさせていただきました。実は最近『インセプション』の再上映を観に行ったので、それから考えたことを本稿で述べていきます。以下にあらすじを載せておきます。

あらすじ
産業スパイのドム・コブは、夢の世界で対象から情報を抜き取る方法「エクストラクト」を用いて活動していた。そんな彼は、妻(モル・コブ)殺しの容疑者とされているため、母国であるアメリカに帰ることができず、子どもたちとも離れ離れで暮らしていた。ある時、実業家のサイト―から、依頼の達成と引き換えに帰国の手助けをすることを打診される。その依頼とは、夢の世界で対象に余計な情報を植え付ける「インセプション」によってサイト―が所有する企業のライバル会社を潰すことであった。コブはチームを結集し、不可能に近い任務に挑む。果たしてコブは母国に帰ることができるのか。

個人的なことを言うと、実はこの作品は3周しているのですが、いつ観ても楽しめるとても良い作品になっています。この記事では、物語の結末についてのネタバレはありませんが、一度鑑賞していただいた方が読まれることを前提に書いているということはご了承ください。

未鑑賞の方はぜひ観てください!そして前述の記事と本稿を読んでいただけると嬉しいです。

本稿の構成としては、まずコブが毎晩見ている夢の構造について表現の視点から考察した後、本作の「ファムファタール」であるモル・コブの立ち位置に着目しつつ、アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』と比較し、検討することで『インセプション』がどのような影響を受けているのか、また、どのようにして異なる作品としているのかということについて検討していきます。

(本当にいろいろと考えさせられる作品なので、実はまだ文章にできてないストーリーの深読みもあるのですが、構成的な問題もあるのでまた別の機会にやることにします。)

コブの夢

まず、ドム・コブが夢の中に妻(モル)を閉じ込めていたことが発覚するシーンについて、その表現の意味を検討します。

コブの夢はエレベーターで各階に行くことができ、下の階に行くほど辛い記憶に基づいたものになっています。それぞれの階がコブの記憶を基に構成されていますが、なぜ垂直な階層構造になっているのでしょうか。

一つ目の理由として、コブによる「記憶の抑圧」を表現する意図があったと考えられます。

人は嫌な出来事が生じると、それを忘れることで精神の安定を図ると考えられます。しかし、どれほど嫌な思い出であっても忘れることができないものがあるのではないでしょうか。いわゆるトラウマのようなものです。どれだけ楽しい思い出によって上書きをしていても、その下にはトラウマがあるから、突如として嫌な思い出がフラッシュバックするのです。

また、「抑圧」という単語からは上から無理やり押さえつけているような様子が想像できます。

モルが投身自殺をしたときの記憶は、明らかにコブの中でトラウマとなっています。そのため、彼の夢世界の中で最下層に存在させ、上層階にある妻や子どもと浜辺で遊んだときの記憶によって無理やり押さえつけることで、コブが正気を保っているということが視覚的に表現されています。

では、水平な構造ではなぜダメなのでしょうか。ここに、二つ目の理由があります。

例えば、コブの夢がホテルの客室フロアのように水平で、各部屋にそれぞれの記憶があるという構造にしてしまうと、観客にコブがそれぞれの記憶を対等に扱っているという印象を与えてしまうため、モルの死がトラウマになっていることの説明としては不十分になってしまうと考えられます。

少し違うかもしれませんが、例えるならばタンスのようなものです。

タンスに服をしまっていると、お気に入りの服は上の方にある一方で、そこまで気に入っていない服は底で眠っているという経験があるのではないでしょうか。(もちろん、そんな経験ないわというおしゃれな方もいるとは思いますが。)このときタンス内では、服のお気に入り度で優劣が決まっているということが明らかですよね。

このような理由から、ノーランはコブの夢を垂直な階層構造にして、モルの死がコブには受け入れがたく、できることなら目を背けたい出来事であるという心情(=お気に入りではないということ)を視覚的に表現することに成功しているのです。

夢は潜在意識を反映するものであるため、夢を見る人にとってどれほど不都合な記憶であっても反映されてしまいます。この性質を利用しつつ夢の構造をつくることで、コブの様々な行動の動機付けや、モルの死というトラウマを抱えていることを表現している点で「さすがノーラン」と言わざるを得ません。

モル、マデリン、あるいはジュディ

次に、「ファムファタール」としてのモルについて検討します。彼女は、自分がいる世界が現実でなく夢なので、夢から醒めるために死ななければならないという考えの下で自殺してしまいます。ここで疑問に感じたのが、自殺方法には様々なものが考えられるのに、なぜ飛び降りるという方法を選んだのかということです。

もちろん、観客に劇的効果を与えるためにこの方法を選んだというのもあるでしょう。しかし、それ以上にある映画作品のことを想起させられました。

その作品とは、『めまい』(監督:アルフレッド・ヒッチコック)です。簡単にあらすじを紹介しておきます。

主人公のスコティは警官だったが、トラウマから高所恐怖症によるめまいを発症するようになり退職してしまう。そんな折、旧友から何かに憑かれたような行動をする妻(マデリン)の尾行を依頼される。調査により「カルロッタ」という彼女の先祖に当たる女性が不遇の死を遂げたことをスコティは知る。尾行を続けるうちに彼はマデリンに恋をしてしまうが、彼女はカルロッタが自殺したという教会の鐘楼から飛び降りて死んでしまう。マデリンの死により精神衰弱に陥ったスコティは、ある日、マデリンに瓜二つの女性、ジュディを発見し…

『めまい』はフィルム・ノワールに分類される作品として知られています。(フィルム・ノワール、およびファムファタールについての説明はこちら

この作品と『インセプション』は「ファムファタール(運命の女)」の死、およびその方法が共通しています。

少しファムファタールの話からずれますが、『めまい』のポスターと『インセプション』の第二階層のシーンも似ているような印象を受けます。(『インセプション』第二階層のシーンはめまいを起こしそうなほどセットが回転し続けます。)

ここに、本作では『めまい』に対するオマージュ(もしくは影響)があったと考えられます。

画像1

(『めまい』のポスター)

画像2

(『インセプション』第二階層の戦闘シーン)

話を戻しましょう。

では、本作と『めまい』では「ファムファタール」の描き方にどのような違いがあるのでしょうか。

『めまい』においてヒッチコックは、マデリン(キム・ノヴァック)の女性的な魅力を徹底的に描き出そうとしています。そうすることで、スコティがマデリンに恋心を抱くことが観客に違和感なく受け入れられるのです。そして、その流れで生まれたメロドラマを一瞬で崩壊させることにより、フィルム・ノワールとしての陰鬱さや悲観的な世界観を強調しています。ここでのマデリン(ジュディ)は伝統的な意味での「ファムファタール」、すなわち、性的な魅力によって主人公を破滅させる魔性の女として描かれています。彼女の魅力に負けてしまうため、スコティは精神衰弱という破滅状態にされてしまいます。

一方『インセプション』では、モルはあくまでもコブの潜在意識の投影として現れ続け、徹底的にコブの邪魔をする存在です。しかし、その女性としての魅力を強調するような描き方はなされていません。(もちろんポリコレ的な意味はあると考えられますが。)そうしたことから、ここでのモルは本来的な意味での「ファムファタール」、すなわち、運命の女として描かれています。これにより、ノーランは主人公の妻を「悪人ではない人物」として描き、コブが亡き妻を想い続けることに違和感を抱かせないだけでなく、コブが感じている孤独を強調させています。

以上のことから、『インセプション』は『めまい』の影響を受けつつも、「ファムファタール」の描き方に決定的な違いをつくることで、似たような境遇にあるはずの主人公が迎える結末も異なる物に仕上げることに成功しています。

最後に

最後まで稚拙な文章にお付き合いくださり、ありがとうございます。

夢の中で自由に動けるなんて、ロマンがあってめちゃくちゃ良いですよね。

前述した通り、本稿で取り上げた作品『インセプション』を通算で3周しているのですが、不思議なことに一度も分析しながら観ることができていません。(笑)何度も観ているだけでなく、設定なども調べまくって知っているのに没入して楽しみながら観てしまいます。

それだけ面白い作品ですので、この記事を読んでいただいた方に、また観ようかなと思っていただけると嬉しいです。

しかし、ここまで楽しんで観ることができる作品だと辛いものですね。いっぱい分析して、noteにまとめようなんて考えても「やっぱ最高やわ~!!」って感想しかでてこないんですよ。ジレンマですね。

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