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偽善だよ、そんなの

〜注意書き〜
1、このアカウントで出た今までのnoteとは違う人が書いています。そのため性別について普段の記事とは矛盾する内容がありますが、ご承知ください。
2、強い言葉が含まれます。
3、引用が多いです。
4、内容に一貫性が無いです。





この二つの人びと、二つの集団、二つの社会は、それぞれ、異なった道を歩んできたのである。
この二つの集団は、そういう関係にある。そして、その違いというのは、(略)どこまでも、非対称的な、不平等な、一方的な関係だ。
(略)
ここ何十年かの、社会学や哲学や、現代思想と呼ばれる領域では、どちらかといえば、人びととのあいだにあまり線をはっきりと引かないこと、そういう境界線を飛び越えたり、行ったり来たり、あるいは解体したり台無しにしてしまったりするような、個人の多様性や流動性や複雑性を強調することが多かったように思う。しかし私はあえて、ここではその境界線の「こちら側」にはっきりと立ち、境界線の向こう側を眺め、境界線とともに立ち、境界線について考えたいと思う。
(略)
だからこそ、私はこの境界線を軽々しく飛び越えたくない。
(岸政彦「はじめての沖縄」新曜社)

僕は自分のことを、ずっと、(あえて嫌な言い方をすれば)「女性に対して理解的な、フェミニズムに対して理解的な男」だと思っていた。それは、単に優しいつもりということではない。

昔から、男子だけの空間は居心地が悪かった。今ではそれが、「ホモソーシャル」というものに対する違和感だったのだとわかる。女性を「ネタ」にして強まる男たちの団結に、馴染めなかった。そんな中で、僕の人間関係の中心には、いつも女性がいた。

差別や格差に対しては人一倍敏感なつもりだった。フェミニズムから多くのことを学んだし、また、自分では受け入れ難いこと(例えば、「男はまずは黙って女の言うことを聞け」など)でも、向き合って、吸収しようとしてきた。過去の自分の失敗も反省して、向き合った。

それでも、女子のコミュニティに馴染み切れている気がしなくて、悩んだりもした。自分のセクシュアリティを男性ではないところにあると考えて、少しの納得と少しの違和感を抱えて生きてきた。

文字通り、男女の境界線を飛び越える/飛び越えた人間だと思っていた。

そんな自分の過去を否定するわけではないし、同じようにホモソーシャルの中で違和感を抱いている男性を否定するわけではない(そう言う人は是非「男性学」について勉強してみてほしい、ただし、ある程度信頼できるソースから。)。でも。

セクシズムの権力とは、多様なはずのセクシャリティを、生殖器の有無で二分し、男性を上、女性を下に置く序列をつけることで始まる。レイシズムの権力が、多様なアフリカの民族を黒人として一括りにし、白人とに間に序列をつけ、自らの利益のために奴隷として売り飛ばしたのと同じように。と考えている。(その一方で、黒人の中にも民族間に序列をつけたのと同じく、女性の中でも区別がされ、その区別された中には序列がある、が、それは今は置いておこう)(また、これは性的マイノリティの議論とは別な次元での話だと言う事も言いたい。身体の性別とどこかで食い違っていることもまたマイノリティ属性だ。)

僕は、男性の身体を持つ、男性だ。

僕がどれだけ拒もうが、僕は男性だ。

僕は、電車の中で痴漢に怯えながら登校する日常を知らない。夜道を歩くときに、襲われる恐怖も少ない。異性の前でもほとんど心配することなくお酒を飲みたいだけ飲めるだろう(飲まないけど)。犯罪の被害者になっても、もみ消されたり、無視されたり、不当な無罪判決が出ることは少ないだろう。将来、結婚や妊娠でキャリアが断絶されることを今から怯える必要もない。苗字も、変わるなら話し合いの上でだろう。同じ仕事をしている異性の8割近くの給料で仕事をしなければいけないなんてことはないだろう。

どれだけ自覚的であろうが、僕は男性としての特権を得ているのだ。

それは、僕が持つ他のマジョリティ属性にも当てはまる。

僕は、裕福な家庭の生まれとして、日本国籍を持つ者として、シス/ヘテロジェンダーとして、五体満足として、定型発達として、高学歴として、基地から遠く離れた場所に住む者として、先進国に住む者として、僕は、特権を享受し続けるだろう。

そこから目を背けて、差別に声だけをあげるのは、偽善だ。

僕がどれだけ努力しても、僕と、マイノリティの間には、厳然と境界線が引かれている。僕は、言葉ではマイノリティにどんな抑圧がされているのかを理解することはできるが、絶対に、決して、それを経験することはできない。僕は、差別する側の人間であり、また、差別する社会の中で自分の中に埋め込まれた差別の種を、どうやったって捨てることはできない、差別する人間なのだ。

この偽善に陥らずに、マジョリティの立場から、どうしたら差別に抗していけるだろうか。

いや、「マジョリティの立場から差別を考える」という態度もまた、偽善への第一歩かもしれない。

だからといって、沖縄の基地問題に関心があると話すひとたちを前にして、私が黙り込まなかったわけではない。私の通った大学院は、社会的な運動に関わることが奨励されるような文化を持っており、沖縄の基地問題もまたときどき話題になった。
一九九五年に沖縄で、女の子が米兵に強姦された事件の時もそうだった。(略)沖縄では八万五〇〇〇人のひとびとが集まる抗議集会が開かれたこと。東京でも連日のように、この事件は報道された。
(略)
抗議集会が終わったころ、指導教員のひとりだった大学教員に、「すごいね、沖縄。抗議集会に行けばよかった」と話しかけられた。「行けばよかった」という言葉の意味がわからず、「行けばよかった?」と、私は彼に問い返した。彼は、「いやあ、ちょっとすごいよね、八万五〇〇〇は。怒りのパワーを感じにその会場にいたかった」と答えた。私はびっくりして黙り込んだ。
(略)
あの子の身体の暖かさと沖縄の過去の事件を重ね合わせながら、引き裂かれるような思いでいる沖縄のひとびとの沈黙と、たったいま私が聞いた言葉はなんと遠く離れているのだろう。
(略)
私が言うべきだった言葉は、ならば、あなたの暮らす東京で抗議集会をやれ、である。沖縄に基地を押しつけているのは誰なのか。三人の米兵に強姦された女の子に詫びなければいけない加害者のひとりは誰なのか。
 沖縄の怒りに癒され、自分の生活圏を見返すことなく言葉を発すること自体が、日本と沖縄の関係を表していると私は彼に言うべきだった。
(上間陽子「海をあげる」、『海をあげる』筑摩書房)

少なくとも僕は、差別に対して、マジョリティと一緒に「怒れる」人間でありたい。
怒れるマイノリティに「怒りに飲み込まれている」「マジョリティもまた一枚岩ではないことを忘れている」などというレッテルを貼るのは、マジョリティの特権などという言葉を当てるのももったいないぐらい、差別する側の行動だ。それは、「文明化された白人と野蛮な黒人」「論理的な男と感情的な女」という、使い古された偏見をなぞっているに過ぎない。
「理性的に」問題を眺めて「中立な」判断を下すなどというのは、特権を適切に利用しているように見えて、最悪の特権の「濫用」だ。この世界は、差別する側とそれに抗する側しかいないのだから。
「理性」ほど差別に加担してきたものはない(啓蒙時代の博物学者カール・リンネが『自然の体系』の中で、ヨーロッパ人、アジア人、アメリカ人、アフリカ人の間の「人種ヒエラルキー」を定めたように)し、「中立」ほど現実味のある幻想もない。世界を変えてきたのはいつだって「怒り」であり、差別された側に「偏った」行動なのだ。

そして、マイノリティの権利回復を求める、リアル、インターネット両方の実際のアクションに積極的に参加したい。ただ抗議活動を眺めるだけでは、僕はまだ偽善から抜け出せない。

過激だとレッテルを貼られても、見てて不快になると言われても、それが偽善から抜け出す唯一の道だと信じて。

教育格差問題に関心を持ってから4年半。こんな基本的なことに気がつくまで、4年半以上もかかってしまった。恥ずかしいことだ。

それでもきっと、まだまだ足りない。僕は、どうしたら偽善から抜け出せるだろうか。


〜Special Thanks〜
岸政彦先生、上間陽子先生、そして、バッシングにも負けず差別に対抗するアクションを取り、僕の視野を大きく広げてくださった方々、そして誰より、たくさんの気付きと愛をくれるパートナーへ。

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